当日パンフコメント

 この『自由を我らに』を書いて18年の時が流れた。
 そして、18年前に書いたのち12年前にスズナリで再演された。

 以下の文はその12年ぶりに再演された時に当日パンフに書いたものだ。

 ふとつけたテレビのローカルチャンネルで、外国人の弁論大会の中継をやっていた。 アフリカから来た黒人の青年が流暢な日本語で話している。
「私は『終戦』という言葉が好きです、なぜならば、私の国はまだ戦争中ですから」

 戦後60年が過ぎた。
 でもそれは日本国の話でしかない。
 私の父は防衛庁に勤めていた。自衛隊である。潜水艦が担当だった。
 潜水艦が瀬戸内海で座礁した時、家の電話がまず鳴った。その4時間後にテレビに潜水艦座礁のテロップが流れるのを見た。そんな家だった。
 我が家にとってみれば戦争というものはごくごく身近なものだった。そもそも私は日本の国防費でここまで大きくなったのだ。小学校の給食費を払い、中学を出、高校を卒業し、大学にだらだらと居たまま作家となることができた。なにもかもみんな国防費のおかげだ。
 自分が持っている戦争というものに対しての気持ち、平和というものに対しての思いが他の人とズレている、と感じたのが、いったいいつの頃だったか、自分でもよくわからない。
 だが、確実に『違う』ことは間違いない。
 実は戦争なんて、いつでも始められるものだ。そんな思いはずっとある。
 この『自由を我らに』はそんな、あらかじめ矛盾を抱え持っている人、が書いた脚本である。
 12年前、20代の半ばの役者ばかり十数人が出演する舞台を書いて欲しいと、北川44が言ってきた。
 役者が若ければ、当然、見にいらっしゃるお客さんの年齢もまた若い。
 若者向けのわかりやすい、時間も空間も軽々と超えていくダイナミックな演劇を作ることもできた。
 照明変わりーの、音フルボリュームカットインの、キメ台詞を斜に立ってまくし立てーのという芝居も嫌いなわけではない。
 でも、あえて私はそれをやらなかった。
 『憲法』の話でどうだろうか、と思った。
 若い観客が見てもわかり、おもしろがって見ることのできる『憲法』話、それができなければ今回、若い奴らとやる意味はないのではないか、と思った。
 もしもあの時、若者向けのわかりやすいモノを書いていたら、きっとそれなりにウケ、お客さんも楽しんでもらえたことと思う。
 ただ、それをやっていたら今回のような形での再演はなかっただろう。
 そして、そこでさらに思う。
 12年後にこの戯曲が再演されることはあるのだろうか、と。
 その時まで日本の『託された戦後』はまだ続いていてくれるのだろうか、と。
     劇団ガソリーナ じんのひろあき

 これを書いて6年が過ぎた。
 この戯曲のテーマが重みを増す時代を私はキタイしたわけではない。

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