第120話  『のだめ』
  コンサートホールの客席入り口。
  クラシックコンサートの第一部が終了した後『のだめ』効果によるにわか
  クラシックファン達のマナーの悪さにいらだった客達が三十人近く集まって、
  第二部が始まるまでの間、対策会議を開いている。
  どういうわけか、すぐやる課の龍之介がその騒動のまとめ役を買って出て
いる。
  クラシックファン代表として、その側に吉岡が立ち彼らの代弁代表をして
いるところ。
  としか書きようがない状況。
吉岡「落ち着いていきましょう、落ち着いて、ね、みなさん、大人なんだし、
こっちが興奮してたら、ねえ・・誰が誰に文句言ってんだか分かんなくなりま
すから」
龍之介「そうですよ、ほんとにそう」
吉岡「敵は『のだめ』です」
龍之介「はい」
吉岡「『のだめ軍団』なんですから」
龍之介「はい」
吉岡「(そして、集った人々に対して)とにかく、コンサートの一部と二部の
間の休憩は十五分しかありません、その間に、みなさんの意見調整をしてです
ね、なんとか、今日のコンサートの二部をですね、一部のような有様にしない
ように、ここにいる三十名の、クラシックをこよなく愛する人々の力で、なん
としてでも、マナーの悪い客を撲滅するよう、がんばるしかないんです」
龍之介「え、一言よろしいでしょうか・・あの、今一度、自己紹介をさせてい
ただければと思います。今回、このクラシックコンサートを主催しておりま
す、役所の人間でございます。市民相談室すぐやる課、柳沢と申します、よろ
しくお願い申しあげます。えー、どもですねえ・・ええ・・非常にこれはデリ
ケートな問題でございましてですね、あの、みなさんのお怒りのご様子はよく
よくわかりました。私は特にクラシックのファンではございませんが、え・・
皆様のお怒りはごもっともだと思います。ただ、えー、他のお客様もですね、
一応、お金を払っていただいているお客様ですので、あまり、無下にするのも
どうかと」
吉岡「(龍之介に)そういう態度はよくありません」
龍之介「よくないですか」
吉岡「よくないです。断固、抗議するべきです、マナー違反なんですから」
龍之介「(大きく頷いて)ですよね、そうです、それはそうなんです。確かに
マナーはマナーですからね」
吉岡「マナーは守ってもらわないと、オーディエンスとして、聴衆としてここ
にいる資格がありません」
龍之介「そうです! そうなんです! 確かにおっしゃる通り、それはそうな
んですけどね・・ええ、マナーのよろしくないお客さんに、それをどのように
伝えたら・・ねえ、第二部を気持ちよく始めることができるのか、という事だ
と思うんです」
吉岡「とにかく、『のだめ軍団』ですよ」
龍之介「『のだめ軍団』・・」
吉岡「我々、クラシック好きの人間は奴らをそう呼ぶことにしています」
龍之介「『のだめ軍団』ですか」
吉岡「ご存じですね、『のだめ』の『のだめカンタービレ』」
龍之介「マンガのあれですか?」
吉岡「マンガ、というよりもドラマの方が影響力が大きかった、と、私は思い
ますけどね」
  と、「そうだ、そうだ!」という声が上がった。
吉岡「(ある方向を見て)ですよね(別の方向を見て)ですよね(さらに別の
方を見て)そうですよね」
龍之介「『のだめ』ですか」
吉岡「敵は『のだめ』を見て、演奏会に押し寄せるにわかクラシックファン、
通称『のだめ軍団』」
龍之介「にわかファンだと、やっぱりマナーとかは」
吉岡「わからない」
龍之介「にわかですから」
吉岡「マナー、知らない」
龍之介「困りますね」
吉岡「本当のクラシックファンはね」
と、吉岡、三十人の方に向かって、
吉岡「そうですよ、そういう意見もありますよ、本当に良い音が聴きたかった
ら、良いオーケストラの演奏が聴きたかったら、CDで聴けばいいんです、そっ
ちの方がよっぽど音はいいに決まってる」
龍之介「でも、こうしてみなさんはクラシックの生の音を聴きたくて、会場に
足を運んでいらっしゃるわけじゃないですか」
吉岡「(と、今度は龍之介に)そうです、そこなんですよ」
龍之介「みなさんは、どうしてクラシックのコンサートに足を運んでいらっし
ゃるんですかね、あの、すっごい素人の意見で申し訳ないんでど、今、あの
(と、三十人のある一人を示して)こちらの方がおっしゃられたようにCDで聴
く方が、なんの雑音もなく聴けるわけですよね」
  と、三十人の中から声が上がった。
龍之介「そうですよね、今日、チケット、九千円ですよ。CD三枚買えるじゃな
いですか」
吉岡「良い音が聴きたいのならCDで聴けと」
龍之介「いえ、聴け、とまでは言ってないんですけど、ただ、ちょっと不思議
だなあ、っていうド素人のね、これは確かに主催者の側である役所の人間が言
うことじゃないこともわかってはおります、もちろん、わかっております・・
が、ねえ、そこんとこどうなんでしょう」
吉岡「どうですか、みなさん」
が、誰も答えない。
吉岡「ここでクラシックファンが、なぜCDでクラシックを聴くという手段では
なく、コンサートに足を運ぶという方法をとるのか? どなたか、意見を」
龍之介「っていう、こういう感じになっちゃうと、ね、なかなか言い出しづら
いですよね。小学校の時からそうでしたからね、なにかありませんかって、言
うとね、日本人は基本的に黙りますからね」
吉岡「では、私個人の意見を言わせていただいてもいいですか」
龍之介「大歓迎です」
吉岡「よくわかりません」
龍之介「え? ・・・ええ? それは・・あの」
吉岡「生の音の良さ、としかいいようがありません」
龍之介「それは十分な理由なんじゃありませんか」
吉岡「でも、その生の音を求め、こうやって開場に足を運ぶと待っているのは
『のダメ軍団』膝の上に置いたパンフはバサバサ落とすわ、ひそひそ話すわ、
携帯は震えるわ、クチャクチャなんか噛んでるわ、しゃわしゃわコンビニの袋
の音を立てるわ」
龍之介「わかります、わかります、それはねえ、ちょっと、どうかと思います
けどね」
  と、「そうだ」「そうなんだよね」という小さな声が三十人の中から上が
る。
吉岡「(それを拾って)ですよね、そうですよね、そのジレンマと闘いなが
ら、今日もまたクラシックのコンサートに足を運んでしまう」
龍之介「基本的なことをうかがいますが、まず、クラシックのコンサートのマ
ナーなんですが」
吉岡「はい」
龍之介「音を立ててはいけない」
吉岡「そうです」
  と、「そうです」と、三十人の中から力強い同意の声が上がった。
吉岡「(おかげでさらに強気になれた)そうですよね、そうなんです!」
龍之介「音を立ててはいけない」
吉岡「いけません」
龍之介「絶対に」
吉岡「いけません」
龍之介「それが」
龍之介・吉岡「マナー!」
龍之介「それはわかるんですけど・・」
吉岡「けど、なんですか?」
龍之介「どれくらいの音が、その・・立ててはいけない音なんですかね。その
・・マナーの境界線となる、音の、なんていうんですか、レベルっていうか、
基準は」
吉岡「客は音を立てない、音を出すのは演奏者、これがクラシックコンサート
です」
龍之介「え、ええ・・わかります、わかりますよ、それはわかりますけど、ど
こまでが音なんですかね」
吉岡「音、すべてです」
龍之介「音、すべて・・」
吉岡「静寂を、観客は死守しなければならないんです」
龍之介「そんな事ができるんですか?」
吉岡「やるんです」
龍之介「でも、クラシックとはいえ、コンサートってのはその、音楽を楽しみ
に来ているわけでしょう?」
吉岡「静寂を死守しなければ楽しめない事だってあるんです」
  と、三十人の方から「そうだ、そうだ!」という声が上がった。
吉岡「そうですよね(龍之介に)ほらあ(言ってる事、正しいでしょう?)」
龍之介「ええ・・ええ、わかります、わからないと言ってるんじゃないんで
す」
吉岡「それがマナーです」
龍之介「わかります、わかった上でちょっと・・(と、三十人に向かって)ク
ラシックが静寂の中で聴くものである事はわかります。それでも・・その、お
客さんがみんな静まるわけですよね」
吉岡「静まりかえるんです、そこで初めてマエストロは棒を振る、そして、オ
ケが音を出すんです」
龍之介「この会場(と、壁に掛かっている場内の客席案内図を示し)二階席を
含めると千二百席あります。千二百人の人間が一つの場所にいて、静まりかえ
る」
吉岡「そうです」
龍之介「それはできる事なんですか? 可能なんですか?」
吉岡「できます、可能です」
龍之介「千二百人の人間ですよ」
吉岡「千二百人の人間が集って、そして、静寂を作り出すんです。そこにコン
サートの意味があります。集まるのはイコール騒ぐことだって、今、誰もが思
ってるわけでしょう? でも、そうじゃないとしたら? 静寂を作る、気持ち
を一つにして、静まりかえる。一人一人がね、千二百人のために、静まるんで
す。その静寂の中、小さな音色が響き渡る。それはヘッドホンで、CDで聴く音
とは違う、なにが違うか? 緊張感がある、連帯感がある、そして、オーケス
トラが目の前にいる」
龍之介「確かに・・そうですけど」
吉岡「(三十人の方からの声に答えて)時間がない? わかってます」
と、残りの休憩時間が表示されている時計を見る。
吉岡「とにかく、本題のみに絞りましょう」
龍之介「で、その静寂のために、市民相談室すぐやる課の私にすぐできること
っていうのは、なんなんですか?」
吉岡「そもそも(と、ロビーのある方向を示し)どうしてクロークというもの
があるのか、御存知ですか?」
龍之介「クローク、あの、コートや鞄なんかを預けておくとこ」
吉岡「(頷いて)クロークです」
龍之介「(相手の反応を伺うように)客席に持って入ると邪魔だから・・」
吉岡「ではない」
龍之介「ではないですよね」
吉岡「そもそもコンサートのホールは、音がどのように響くのか? というこ
とが設計の最優先事項です。その会場に千二百着のコートが持ち込まれたとし
たら、どうなりますか?」
龍之介「(三十人に向かって肯定的に)どうなりますか?」
吉岡「音がみんな、コートに吸われて行ってしまうんです」
  龍之介、理解した。
龍之介「ああ・・ですよ・・」
吉岡「そうすると、ホールを設計した人が想定する音とは違う音になってしま
うんです」
龍之介「そんなことまで・・ねえ、考えられているものなんですから、ねえ」
吉岡「すべては良い音のため、良い演奏のため、そして、その演奏を楽しむた
め。客席に座った人達は入場料を払ったから何してもいいというものではない
はずなんです。別にありがたがれ、ということを言ってるんじゃない。なんで
もかんでも人を集めるために、敷居を低くしていく、居心地をよくしていく。
でも、そうじゃないものだって、あるんです。そこには、そこの作法というも
のがあり、それにのっとって楽しむべきものがあるんです。なにもかも『のだ
め』のせいにしているわけじゃないんです。クラシックを聴くようになり、知
ろうとしてくれるようになるのはありがたいことです。仲間が増えるのは嬉し
いことですよ。でも、それがこの先も興味を持ち続けてくれるのかというと、
それはごくごく一部の人であることはわかっているじゃありませんか。『のだ
め』のブームが去った後、なにが起きるのか? キムタクのおかげでアイスホ
ッケーが急に人気が出た。そして、今はどうですか? カーリングはどうです
か? 韓流ブームって、本当にあったんですか? 結局、流行ったのは韓流じ
ゃなくて、『冬ソナ』だけだったんじゃないんですか? まあいい、そんなこ
とはいい、人んちのことまであれこれ言っている場合じゃないんです」
龍之介「けっこう、おっしゃってますよ」
吉岡「そういう事じゃないんだ。次ですよ、コンサートの第二部をどうする
か、ですよ」
龍之介「それは最初っから言ってるじゃないですか、私ども役所の人間にでき
る事がなにかあるんでしょうか? って」
吉岡「それですよ」
龍之介「どうにも門外漢なもんで、どこからねえ、なにをどうすればいいの
か? そもそも、なにが間違っていて、なにが正解なのかってのが分かんない
ところから始まってるようなもんなんですから」
吉岡「一つ、提案があります」
龍之介「(これが聞きたかった)なんでしょうか?」
吉岡「第二部は・・・静寂が訪れるまで、マニエストロは、指揮者は指揮棒を
絶対に振らないように言ってもらえませんかね」
龍之介「会場に静寂が訪れるまで」
吉岡「そうです。これがたった一つの冴えたやりかた」
龍之介「指揮者を指揮する?」
吉岡「そうです」
龍之介「静かに願います、とか、そういうアナウンスじゃダメなんでしょう
か?」
吉岡「だって、客席にいる『のだめ軍団』は自分達が騒がしいとは思っていま
せんから、いくらそんなことをアナウンスしたって意味、ないです。なにがダ
メなのか、わかってませんから。一つ一つ言うつもりですか? 膝の上に載せ
たパンフをバサバサ落とす」
龍之介「のだめ」
吉岡「ひそひそ話す」
龍之介「のだめ」
吉岡「携帯を震わせる」
龍之介「のだめ」
吉岡「くちゃくちゃなんか噛む」
龍之介「のだめ」
吉岡「しゃわしゃわコンビニの袋を音を立てる」
龍之介「のだめ」
吉岡「まだ続ける」
龍之介「のだめ、ですね」
吉岡「これ以上言う」
龍之介「のだめ、ですね」
吉岡「ですよね」
龍之介「指揮者に、マエストロに交渉ですか・・すぐにできることは・・それ
か・・」
吉岡「聴衆はただ黙ってそこにいればいい、というもんじゃ、そもそもないん
ですよ」
龍之介「ん・・それはどういう」
吉岡「聴く方も集中が必要だし、静かにしていなければならない、という、そ
ういう日常では味わえない緊張の中で、楽しむ、それがクラシックコンサート
ってものなんです。でもですね、さっきから『のだめ』『のだめ』って言って
ますけどね、この『のだめ』効果による若い人達だけじゃないんですよ、本当
のことをいうと。団塊の世代のお父さん、お母さん達だって、はっきり言って
うるさい。お母さんはなにがうるさいのか? 香りです。香水が鼻についてう
るさい、耳や目にうるさいんじゃなくて、鼻にうるさい」
龍之介「臭いってことを言ってるんですよね」
吉岡「香水がわかってない・・でも、この話を始めると長くなるので、ここで
ははしょります、問題を音、これに集約させましょう」
龍之介「指揮者が、静まるまで棒を振らない・・」
吉岡「そうです(と、指揮者が指揮を始める前のポーズをとり)このまま、止
まっていてもらってください。なかなか始まらない・・会場がぞわぞわしてき
ても、気にしないで、止まっていてください。元々は大人の娯楽なんです。静
寂を楽しむ、贅沢なものなんです。子供が来ていいものじゃないんです。大人
の趣味。なのに子供が多すぎる。静かにしなさい、そんなことを言われている
間は子供ですよ。年は関係ない。子供ですみんな、周りのことが気にならな
い、子供ですよ。だからと言って子供を閉め出してはいけない、子供を育てる
んです、育てなければならない。劇場でそれをやるんです。静まりかえる。指
揮者が指揮棒を振り始めるのは、会場に詰めかけた子供が大人になった時で
す」
龍之介「子供が大人になった瞬間・・」
吉岡「そうです。それまで待ちますよ、待ってやろうじゃありませんか。それ
がどれだけの時間になろうとも、待ちますよ、待ち続けますよ。観客が真の観
客となるまで、いつまでも、いつまでも・・うるさいから注意する、そんな簡
単なことじゃありません。注意すれば、その場は静まるかもしれません、で
も、そういうもんじゃない。これはそういう問題じゃない。やらなければなら
ないことは注意することじゃない、怒ることじゃない、待つことなんです。私
達は待たなければなりません。育つことを待たなければなりません。劇場の椅
子に座るということがどういうことなのか? それを知っている私達がまず、
伝えなければなりません。演奏を聴くとはなにか? 劇場に足を運ぶことはな
にか? 劇場とはなにか? 椅子に座った観客のすべてが、自分の周りのこと
に気を遣い、ひとつとなって、ともにクラシックを楽しむための最高の環境で
ある静寂を作り出すことができる大人になるまで、マエストロは指揮棒を振っ
てはいけない・・」
龍之介「コンサートホールの客が皆、大人になったら・・・オーケストラは演
奏を始める」
吉岡「子供が大人になるための・・静寂・・静寂が人を大人にするんです」

  暗転。