第116話  『ランコントル』
  明転。
  ゆったりとしたソファに身を投げ出すようにして寝ている橋本未唯。
  その短いスカートから投げ出されるようにして出ている長く綺麗な足。
  その側に突っ立っている吉岡。
  静止した空間。
  に、そのシーツの匂いを嗅ぐ橋本の大きな深呼吸のような呼吸音がゆっく
りと聞こえてくる。
  やがて、シーツに顔を埋めている顔を上げた。
橋本「いい匂いよ・・この匂い」
吉岡「・・・・」
橋本「こうやってこのシーツの残り香を嗅いでいるだけで・・体の芯が熱くな
る」
  そして、ゆっくりと熱い吐息を吐いた。
橋本「ふう・・熱い、体が、火照る・・ねえ、わかる?」
  さらに、求めるようにまた、シーツに顔を埋め、明転した時と同じよう
 に、シーツの香りを胸一杯に吸い込んで、堪能する。
  その感覚は、深く長くなるのではなく、浅く、短く、よりもっと多くの香
 りによる快楽を得ようとするように変化していく。
吉岡「帰れよ・・」
橋本「いやよ」
吉岡「帰れって」
橋本「・・・・いやよ」
吉岡「お願いだから帰ってくれよ」
橋本「・・・絶対に・・いや」
吉岡「どうして」
橋本「見つけちゃったんだもん・・この香り・・染みついたシーツ・・この香
りの持ち主を・・」
吉岡「・・どうしたいんだ、それで?」
橋本「この香りを嗅いでると、体の芯から溶けていく気がする・・この香り・
・あなたから出てる匂いよ・・」
吉岡「知ってるよ」
橋本「気持ちいい・・」
吉岡「帰れよ」
橋本「嫌よ」
吉岡「じゃあなに? 俺とやりたい?」
橋本「そんな事、誰も言ってないじゃない」
吉岡「やりたいんじゃなかったら、なんなんだよ」
橋本「ずっと一緒にいたい」
吉岡「迷惑なんだよ・・」
橋本「(聞いてないで、吸っている)本当に、いい、匂い・・」
吉岡「やりたいんだったら、やりますよ」
橋本「品のないこと言わないで」
吉岡「じゃあ、どうしたいんだよ」
橋本「側にいたい、って言ってるでしょう?」
吉岡「それやるから持って帰れよ」
橋本「この匂い、嫌い?」
吉岡「嫌いじゃない・・・自分の匂いだ」
橋本「彼女いるの?」
吉岡「いない」
橋本「寄って来るでしょ?」
吉岡「だからいらないの、女なんて」
橋本「なんで?」
吉岡「女には不自由してないの。したこともないし」
  と、吉岡、シーツを示し、
吉岡「それやるから帰れよ」
橋本「・・いや」
吉岡「なんで?」
橋本「見つけた」
吉岡「・・(わかっているが)なにが?」
橋本「フェロモンの男・・フェロモンを出す男を」
吉岡「おまえも一緒だ」
橋本「なにが?」
吉岡「その匂いが好きなんだろう・・俺のフェロモンに惹かれて、やって来た
だけなんだろう?」
橋本「いつから? いつ、気がついたの? 自分が、そういう人間だって・・
自分の体から、女を心から溶かしてしまうような、フェロモンを出す男だっ
て」
吉岡「小学校を卒業して、中学に入る前の春休みだった・・俺に・・いや、俺
の周りに異変が起き始めたのは・・」
橋本「女達がめろめろに?」
吉岡「友達のお姉さん、近所の女子高生、上の階に住んでいる若い奥さん・・
俺が近づくと、おもしろいほどぐにゃぐにゃになった・・」
橋本「わかる・・わかる、それ」
吉岡「おもしろい、と思ったのは最初だけだった。あとは、追いかけられ、逃
げまどう日々だった」
橋本「なにもしなくても、女が集まってくる。男の夢じゃない」
吉岡「みんな、そういう。だが、現実は夢ではない」
橋本「入院して来たのも、女?」
  吉岡、頷いた。
  橋本、シーツにまた顔を埋め、
橋本「わかるな・・その気持ち」
吉岡「その匂いを一生、嗅いでりゃいいじゃねえかよ」
橋本「言われなくてもそうする。これは私の宝物だから・・誰にも渡さない。
誰にも教えない、あなたが・・フェロモンを出す男だということも」
吉岡「入院してシャワーを浴びることができない時間が長すぎた・・」
橋本「あなたが入院した個室に行くと、同僚の看護婦達の様子がおかしくなっ
た。私は最初から気がついてた、あなたが出す、香りは・・これはフェロモン
だと。代えたシーツはみんな私が手に入れた。あなたが退院する日をみんな心
待ちにしていた。みんなは勘違いしていたのよ。あなたが魅力的だと思ったの
よ・・(と、笑って)ふふふ・・違うのにね・・惑わしているのはこの香りな
のに・・そして、あなたはある日、忽然と病室から姿を消した」
吉岡「よくわかったな、ここが・・」
橋本「もしも、もしも本当に女が狂ってしまうようなフェロモンが体から出て
しまう男がいるのだとしたら、その男は必ず、いつも香水を自分に振り掛けて
いなければ生きてはいけないはず。もしかしたら、香水関係の仕事についてい
るかもしれない・・香水関係。調香師。パヒューマーだとしたら」
吉岡「看護婦にしておくのはもったいないな・・良い勘している・・その通り
だ」
橋本「調香師」
吉岡「香水を作る、それが俺の仕事だ。そして、今も、自分が調香した香水を
つけている」
橋本「シャワー浴びてきて」
吉岡「シャワー?」
橋本「今、体にまとっている香水、洗い流して来て」
吉岡「それで、どうなる?」
橋本「自分の体の匂いを消すために、そんなふうに香水を振りまいているんで
しょ」
吉岡「・・そうだ・・これが俺の鎧だ。香水がなければ、俺はこの世界では生
きてはいけない」
橋本「シャワーを浴びてきて」
吉岡「女が言う台詞か・・それが・・」
橋本「ねえ・・」
吉岡「シーツの残り香で、そんなになってるんだろう? 直に嗅いだら、おま
え、卒倒するぞ」
橋本「(不敵に笑い)ふふふ・・卒倒する。良い香りを嗅いで・・男のフェロ
モンで卒倒する? いいじゃない、素敵じゃない・・女に生まれてきて、これ
以上の快楽はないかもしれない」
吉岡「よく言うだろ・・快楽に溺れるって・・そして、みんな、溺れ死んでし
まうんだ、その中で」
橋本「今まで彼女っていなかったの?」
吉岡「いないよ・・・彼女ができるわけないだろう・・こんな俺に」
橋本「かわいそう」
吉岡「わかっていないくせに同情なんかしてくれるな」
橋本「女を信じてないでしょう」
吉岡「信じたいね」
橋本「信じてないでしょう」
吉岡「信じたい」
橋本「信じてないんだもんな」
吉岡「信じたい・・でも、できない」
橋本「彼女とか、欲しくないの?」
吉岡「欲しいよ」
橋本「欲しいんでしょう?」
吉岡「あんたが彼女になってくれるっていうのか?」
橋本「それは嫌よ」
吉岡「なんなんだよ」
橋本「ほっといても女が寄ってくる男を彼氏にしたいなんて思わないでしょ
う。独占できるわけでもないし・・気が気じゃない・・私はあなた個人には興
味がないんだもの」
吉岡「人並みにね・・人並みに、人並みの生活を送りたかった・・でも、それ
は叶わぬ夢だったんだ」
橋本「(明るく)かわいそう」
吉岡「いいからもう、帰ってくれ」
橋本「まさか・・まさか、フェロモンを出す人間がいるなんて・・思いもしな
かった」
吉岡「確かに人にフェロモンは存在しないと言われている」
橋本「・・あるじゃない、ここに、確かにあるわ、フェロモンの残り香が」
吉岡「フェロモンというものは、そもそも、昆虫だけが持つものだと思われて
いた。昆虫が持つ性的誘因物質、それをフェロモンと名付けたんだ、それも、
匂いにまつわる人間の文化の歴史を考えると、つい最近、認知され銘々された
ものだ。オーディコロンのコロンはドイツのケルンという町の名前が元になっ
てる。ケルンで発達した、香水がコロンと呼ばれるようになった。十八世紀、
千七百年のことだ・・それに比べたら、まだ、人間のフェロモンは未開の原野
と言ってもいいくらいだ」
橋本「詳しい・・って言っても、ヴェルサイユ調香師養成所を首席卒業だもん
ね」
吉岡「どこまで知ってるんだ、俺のことを?」
橋本「まあ、いいじゃない、それは・・フェロモンは存在しない、でも、ここ
にはある」
吉岡「フェロモンという言葉が生まれたのが、一九五九年、まだ五十年も経っ
ちゃいない」
橋本「・・本当に?」
吉岡「それは知らなかったみたいだな」
橋本「もっと昔からあるものだと思ってた」
吉岡「言葉が生まれたのが五十年前、そして、その時は昆虫にしかないものだ
と思われていた。しかも、その時のフェロモンの定義といったら、外部に分泌
されるもので、他の者の行動、または生理に影響を及ぼすものがある、その程
度の認識だった。でも、やがて研究を続けるうちに、気付いた。その他者に向
かって話しかける匂いの言葉、スメールランゲージがあることを」
橋本「スメールランゲージ」
吉岡「語りかける匂い。なにかを伝えようとする匂いというものがあること
を。それが、昆虫だけではなく、爬虫類、鳥、魚、そして、哺乳類にもあるこ
とが明らかになってきた。だが、それもまだ、それに気付いて五十年しか経っ
ていない。『フェロモン』というのはギリシャ語の『運ぶ』という意味のフェ
レイン、そして、『興奮する』というホルマンという言葉の合成語だ」
橋本「フェロモン」
吉岡「もしも、もしも、俺のフェロモンがなんなのか、その謎が解明され、人
工的に作り出すことができたとしたら・・それはバイアグラどころの騒ぎじゃ
ない・・・女がみんな、香りにやられ、めろめろになって・・その時、世界が
・・社会を支えている関節が外れる」
橋本「(笑っている)・・あなたは核爆弾並の力を持っているってことなの
ね」
吉岡「そして、同時に誰も手にしたことがない黄金の塊でもある」
橋本「でも、彼女はいない」
吉岡「滑稽だろ、おかしけりゃ笑えよ・・いや、笑うな・・一人にしておいて
くれ」
橋本「一人にはしない」
吉岡「・・どうして?」
橋本「私はわかったの・・わかったっていうか、これで気付いたわけじゃない
けど・・あなたのこのフェロモンの香りを嗅いだ時、私の進むべき方向が決ま
ったの、はっきりと」
吉岡「どういうことだよ」
橋本「私が今、こうやって、シーツの残り香を嗅いで・・発情してる・・気持
ちとはまったく別に私の体が反応しているの、熱いの、体の芯が・・でも、私
は自信がある、このシーツにはもうほとんど、あなたの匂いは残っていない。
他の人がこのシーツにいくら頬を押しつけたとしても、この香りを堪能するこ
となんてできやしないと思うの・・でも、私は感じる・・おかしいと思ってい
た。入院している患者さんに近づくと、あきらかに、ある匂いがしはじめる時
がある。私は、周りの看護士に聞いて回った。でも、誰も気が付かない。で
も、私は確実にその香りを感じていた。松の木のような匂いが人の体からす
る。その匂いが出始めると・・一週間もしないうちに、その患者さんは・・」
吉岡「(本気で驚いた)嗅覚が・・そんなに・・優れている・・のか?」
橋本「近づいて、その人の香りを嗅ぐだけで、癌の患者さんが、なんの癌かわ
かるの、って言ったら信じる?」
吉岡「信じる」
橋本「そんな看護婦がいるって信じる?」
吉岡「信じる」
橋本「私は、匂いがわかる、だから、素敵な匂いを嗅ぎたい、香りに酔いしれ
たい。ソムリエが、最高のワインに酔うように、最高のフェロモンに酔いた
い」
吉岡「それでも(自嘲ぎみに)俺という個人には興味がないというわけだ」
橋本「(頷いた)あなたには興味がない。あなたが放つフェロモンに興味があ
る、ただそれだけ」
吉岡「それだけはっきり言われると気持ちが良いもんだな」
橋本「あなたは今、フェロモンを封じるために、自分で作った香水を身に纏っ
て武装している。でも、その武装の中はまだ、なにもないでしょう? フェロ
モンを抜きにしたら、そこにどんな自分が残るのか、わかってない・・それを
知ろうとしている。その人がどんな人かを知ろうとする手助けはできるかもし
れない。でも、愛することはできない。今のあなたには、なにも感じない。女
として」
吉岡「それ以上言うな、言いたいことはわかった。それ以上言うと、へこむ
ぞ」
橋本「あなたのフェロモンに酔いたい、そして、同時に、その匂いの言葉を追
求したい。香りによる誘惑を、囁きを、愛の言葉を、愛の香りを。それをあな
たとともに・・あなたはフェロモンを出す自分、以外の自分を探りたい。私は
あなたのフェロモンの秘密を探りたい」
吉岡「・・・で、どうすればいい?」
橋本「あなたの助手にして・・・あなたの側にいて、溶ろけるような香りを追
求してみたい・・一緒に。最高の香りを」
吉岡「俺の体からフェロモンが出ることは、誰にも言わない、と誓えるか」
橋本「言うわけないじゃない・・この私が・・この最上級の価値がわかる者だ
けが、最上級のものを味わう資格がある。ちがう?」
吉岡「これまで・・一人で戦ってきた、これからも一人で戦うつもりだった・
・人間の・・性欲というものと・・」
橋本「一人、増えたのよ」
間。
吉岡「香水を造ってやるよ」
橋本「香水を? 私に?」
吉岡「助手ができた記念に・・」
橋本「・・(笑って)うれしい」
吉岡「君の香りを嗅がせてくれ・・その香りにあう香水を調香する」
  吉岡、手招きして、自分の元へと引き寄せる。
  そして、橋本の首筋の香りを嗅ぐ。
  一瞬、それはキスするようにも見える。そして、制止した時間。
  ドラキュラに血を吸われる女のように、吸われること、匂いを嗅がれるこ
とで快感が生まれていくかのように、女の顔、上向きになり、その表情、悦楽
のそれに変わっていく。
  やがて・・
  吉岡、体を離し。
吉岡「わかった」
橋本「わかった?」
吉岡「シトラスだな・・」
橋本「シトラス?」
吉岡「レモン、オレンジ、ライム、ベルガモットなんかの、さわやかで甘酸っ
ぱい香りがシトラスだ。それをベースに作ってみる」
橋本「それが、私の香り」
吉岡「名前つけるか」
橋本「名前? その香水の名前」
吉岡「ランコントル」
橋本「ランコントル?」
吉岡「フランス語で『出会い』っていう意味だよ」
橋本「出会い」
吉岡「ランコントル」
橋本「ランコントル」
  ゆっくりと暗転していく。