第112話『ブラックジャックによろしく』
  明転。
  ビューティー・クリニック、カウンセリングルーム。
  診療着の山下、その前に神妙そうにして座っている美希。
美希「顎を削るのに百・・二十六万円」
山下「そう・・ですね」
美希「顎が百二十六万円で、バッカルファットが・・」
山下「頬、ですね」
美希「バッカルファットが・・六十三万円」
山下「バッカルファットっていうのは、頬の内側の脂肪を切除するんですけ
ど、外からじゃなくて口の裏側から取るんです。口の両脇の深層部に塊として
存在しているものなんです」
美希「(聞いてもよくわからんが)ええ・・それが六十三万」
山下「他のクリニックよりは、多少、お安くなってはおりますが」
美希「ええ・・それはそうみたいですね」
山下「お調べになって、比べられてみると、わかると思いますが・・」
美希「でも、あの・・そういう問題ではないんで(と、反芻するように)百二
十六万とか、六十三万とか・・これはあれですか、消費税とかが入っているか
ら、百三十万ではなく、百二十六万円とかっていうハンパな金額になっている
んですかね」
山下「そうですね・・面倒ですよね、消費税の計算は」
美希「そうですよね・・海外から日本に来た人達はびっくりするでしょうね、
こんな税金の掛け方をしてる国があるなんて」
山下「ああ・・・でも、消費税なんて無粋な名じゃありませんけど、似たよう
な税制がある国はあるみたいですけどね」
美希「そうなんですか・・ああ、でも、今日はそんな消費税のお話をしに来た
わけじゃなくて」
山下「ああ、そうですよね」
美希「まさか、こうやって担当の先生に直接お話が伺えるとは思っていなかっ
たんで」
山下「お気軽にいらして下さってかまいませんよ。もちろん、時間帯にもより
ますけど」
美希「はい・・もう、お話していただけるだけで・・びっくりしてるっていう
か・・」
山下「どうぞ、リラックスしてください。ここにいらっしゃる方の悩みってい
うのは、御本人だけの問題ではありませんし・・もともと、美容整形は痛いと
かほっておくと大事になるとかという事ではないところを治療するものですか
ら」
美希「そう、そうですよね・・」
山下「ですから、御本人様を含めて、みなさんが納得なさってからでないと、
おいそれと手を付けていいものではないんですから」
美希「本人はいいと思ってると思うんです、納得しているっていうか、元々が
彼女の希望なんですから」
山下「ええ・・そのあたりのお話は時間を掛けてじっくりしました」
美希「みたいですね、関係のない私なんかが電話しただけでこうやって、会っ
てお話をして下さるぐらいですから」
山下「関係ないなんておっしゃらないでください。御友人じゃないですか」
美希「ええ・・それはそうなんですけど、今回、友達っていうものの、なんて
いうんでしょうか、境界線みたいなものがどこまでどうなのか、真剣に考えて
しまいました・・こういう事ってどこまで言っていいものなのかって・・」
山下「ええ・・わかります」
美希「整形したいって友達が言った時、その友達には何ができるのか?」
山下「ええ・・・」
美希「反対していいものなのか?」
山下「ええ・・・」
美希「それとも、自分の気持ちよりも、相手のその・・変わろうとする強烈な
意志を尊重して、励ましてあげるべきなのかどうか」
山下「ええ・・・」
美希「でも、やみくもに自分の価値観で、それをやめるべきだ、と言うのは簡
単ですけど、有希子が・・彼女が考えに考え抜いての決断なわけですから、ね
え、私がそこに口を挟むなんて、ねえ、って・・考えれば考えるほど、堂々巡
りなわけですからね・・」
山下「ええ・・そのために事前にカウンセリングというものを行っているわけ
ですから・・・カウンセリングというのは通販の番組で商品を勧めるのとは違
いますから」
美希「ええ・・わかります」
山下「これを買え、買え、買えばこんなにいい事がある、買わないと損だ、と
いう事だけじゃなくて、買わないという手もありますが、どうしますか? と
いう選択肢も含めての相談をする時間なんですから」
美希「安心しました・・どうもありがとうございました」
山下「え?」
美希「いえ、あの・・どんな先生とどういう感じで有希子が話をしたのかって
いうのが、気になっていたんです、でも、それがわかったんで・・」
山下「わかったんで?」
美希「もう、どうしようもないって感じですね」
山下「まあ、もう少し、お話、していかれませんか?」
美希「よろしいんですか?」
山下「時間は取ってありますから」
美希「そうですか・・でも、なにを話せばいいんでしょうかね・・口を挟む余
地がないことはわかりました・・でも、なんて言うんでしょうか・・あの『ブ
ラック・ジャック』ってマンガあるじゃないですか」
山下「ええ・・」
美希「『ブラック・ジャック』の中に整形の話があるんですけど」
山下「アイドルが整形して顔を変える話ですか?」
美希「そう、そうです」
山下「整形して、アイドルは成功するんですけど、ブラック・ジャックの家の
暖炉の上に、整形する前のその女の子の顔写真が飾ってあるんですよね」
美希「そうです・・私はこの顔の方が好きだって、ブラック・ジャックが言う
んです・・」
山下「そうです、そうです」
美希「『ブラック・ジャック』お好きですか?」
山下「私、ブラック・ジャックに憧れて医者になったんですよ」
美希「そうなんですか?」
山下「ええ・・私だけじゃなくて、手塚先生のマンガで人生を変えたっていう
か、自分の進路を決めた人っていっぱいいるみたいですよ・・『鉄腕アトム』
を作ろうと思って、結局、今、NASAにいる人もいるそうですから」
美希「ああ・・ソニーのアイボ作った人も確かそうでしたよね」
山下「ああ、そうですそうです」
美希「でも、それ言ったら、日本でマンガを描いている人はみんな、元を辿れ
ば手塚先生の作品に触れることで、人生決めたってことだし、それを毎週毎日
読んでいる我々だって・・なんらかの影響は確実に受けてしまっているわけで
すから」
山下「それはそうですね」
美希「手塚治虫が思う、命の大切さとは何か、人の尊厳とは何か、とか・・そ
ういう根本のところから、影響を受けているわけですからねえ・・どうしよう
もないくらいに・・ですよ」
山下「そうですね・・・」
美希「もしかしたら、親とか学校の先生なんかよりも、いっぱいいろんなこと
を学んだかもしれませんよ」
山下「ちなみに・・『ブラック・ジャック』だけでも、いくつ話があるか、ご
存じですか?」
美希「いえ、全部持ってはいますけど、話がいくつあるかってのは」
山下「コミックスっていうか、単行本に収録されていない話があることはある
んですけど、公になっているのは二百四十二話なんです」
美希「二百四十二話ですか」
山下「すごいですよね・・二百四十二話」
美希「でも、手塚治虫先生が生きていらしたら、まだまだ続いていたんでしょ
うね、きっと」
山下「きっと・・いくらでも続いていたでしょうね」
美希「残念ですね、亡くなられて」
山下「亡くなられた時、ちょうど医大の二年生で、必修の解剖が終わった頃で
・・みんなやらされるんです。一ヶ月くらいかかって・・解剖を」
美希「そうですか」
山下「人間の体の中って・・『ブラック・ジャック』で見たまま、とまでは言
いませんが、手塚先生は、人間の心のことだけじゃなくて、人間の体の中のこ
とまで、けっこうリアルに描かれていたことがわかりました」
美希「そうなんですか」
山下「手塚先生が亡くなられた時、一番ショックだったのは、癌になった手塚
先生を診るブラック・ジャックがいなかったということですよ。こんなことを
言うのは変かもしれませんけどね。ここがブラック・ジャックが活躍するとこ
ろなんじゃないのかって、思ったんです。今、今だろう、ブラック・ジャック
を呼べ! って! もしも、ブラック・ジャックがいて『一億円払うなら、治
してやる』って言ってくれたら・・日本中のね・・子供から大人からみんなお
金を出したと思うんですよ。あっという間に一億円くらい・・たとえ十億円と
ブラック・ジャックが言ったって、一日あれば集まったと思うんですよ。で
も、結局『治してやる』と言ってくれるブラック・ジャックは現れなかった。
手塚先生のマンガのようにはいかなかった」
美希「あの時、ブラック・ジャックはどこにいたんでしょうかね」
山下「いなかったんですよ、ブラック・ジャックは、どこにも」
美希「それ、言っちゃいますか」
山下「ブラック・ジャックはいなかったんです・・そして、手塚先生が亡くな
られて、本当にいなくなってしまったんです」
美希「いなかった者がいなくなってしまった」
山下「そうです・・そういうことなんですよ」
美希「あの、これは大変、失礼な質問かもしれまんせんけど・・」
山下「はい・・」
美希「もし、もしもですね・・先生がブラック・ジャックだとしたらですね・
・」
山下「私がブラックジャック」
美希「ええ・・もしも、先生がブラック・ジャックだとしたら、有希子のこの
手術を行うでしょうかね」
  山下、一瞬、素になって、
山下「すごい事おっしゃいますね」
美希「ごめんなさい」
山下「いえ、いいんです・・ちょっと、びっくりしただけですよ」
美希「ごめんなさい」
山下「そうですね・・ブラック・ジャックだとしたら・・」
  山下、言い終えて少し笑った。
美希「変なこと、言いましたかね、私」
山下「いえ、全然・・そうか、もしも私がブラック・ジャックだとしたらかぁ
・・そうですね、そうなんですよね、元々、私、ブラック・ジャックに憧れ
て、医者になったんですからね・・・忘れてましたよ、そんな感じ・・忘れて
たっていうか、忘れるようにしていたのかもしれませんけど」
美希「ブラック・ジャックは村瀬有希子の整形の手術をしますかね」
山下「ブラック・ジャックならなんて言いますかね・・やっぱり、金次第って
言うんでしょうか」
美希「百二十六万円」
山下「その金額ではブラック・ジャックはやりませんね」
美希「そうですね、ふっかけますからね」
山下「有希子さんが『整形したい』って言ってきたとしたら、ブラックジャッ
クは、まあ最低三千万って言うと思うんですよ」
美希「ですね、最低三千万ってとこですね」
山下「それで・・有希子さんが三千万、払いますって言ったら、どうなんでし
ょう?」
美希「三千万ですか・・」
山下「どうなんでしょう?」
美希「払えるかな、有希子は・・」
山下「『ブラック・ジャック』の中でおばあちゃんが嫁にお小遣いをせびって
はブラック・ジャックに手術代を支払い続けるって話、覚えてます?」
美希「ええ、今、私もその話のことを考えてました・・だから、分割払いって
のもありなんですよね、ブラック・ジャックは」
山下「そうですよ」
美希「だから、三千万のキャッシュが今、有希子の手元にあるかどうかってこ
とが問題ではない」
山下「そうです」
美希「有希子がやるかやらないか・・そう望んでいるのかどうかって、ことな
んですよね、結局は」
山下「そうなんですよ」
美希「でも、いくら有希子に話を聞いても聞いても、一番核心の部分がよくわ
からないんですよ」
山下「核心の部分・・」
美希「ええ・・どうして、そんなことを思いついたのか、思いついてしまった
のか・・」
山下「昔よりも・・昔っていっても、そんなに私だっておばあちゃんてわけで
もないから、私が言う昔ってちょっと前ってことなんですけど、その昔ってい
うか、ちょっと前よりも、世の中の人の美醜に対する目がやけに厳しくなって
きている気がしてしょうがないんですよ」
美希「美醜に対する目が厳しくなっている?」
山下「そんなに気にしなくても、って思いますよ・・正直」
美希「先生もそう思われますか」
山下「でも・・なんて言ったらいいんでしょうか・・若い子達がやっているガ
ングロのメイクがあるじゃないですか、ヤマンバとか呼ばれてるメイク」
美希「あの、顔を真っ黒にするやつですか?」
山下「そうです、あれが流行(はやり)始めた時から、おかしいなって思って
たんですよ」
美希「あれ、びっくりしましたよね、最初見た時」
山下「メイクアップっていうのは、自分を綺麗に見せるためにするものじゃな
いですか。でも、ガングロだけは違っていた。人類史上でも珍しいことなんじ
ゃないですかね、自分を綺麗に見せるためではなく、お化粧をするなんて」
美希「人類史上、ねえ・・」
山下「全員、同じ顔に見えるじゃないですか、顔真っ黒にして、目のまわり白
くしたら・・誰が誰だか見分けがつかない。これじゃあ、誰が誰だかわかんな
いじゃない、ってびっくりしたのはこっちだけでね、彼女達はそうなりたかっ
たんですよ。誰が誰だかわからないように、あのガングロっていうやつを発明
したんですよ」
美希「ガングロっていうのは発明なんですか?」
山下「発明ですよ、しかも画期的な発明」
美希「流行(はやり)ではなく発明か・・」
山下「ガングロにしてしまえば、顔の作りがわからなくなるんです。みんな同
じに見える。美醜の判断ができなくなる。美醜に対して厳しくなったというの
は、昔よりも美人がより美人になったということではないですよね。ハードル
が高くなったってことでもないんですよ。単純に、溝が深くなったっていう
か」
美希「溝が深くなった?」
山下「その溝は深いだけじゃなくて、おいそれとは渡れないように空高くまで
嵐が吹き荒れている・・そんな感じです」
美希「美しい者とそうでない者の間に溝があり、嵐が吹き荒れている」
山下「天高くまでの嵐が」
美希「そうですかね・・言われると、納得してしまいますけどね」
山下「でなければ、どうして十代のあの一番瑞々しい肌を自らの手で真っ黒く
塗りつぶさなければならないっていうんですか」
美希「ガングロは隠れ蓑なんですかね」
山下「なにから隠れようとしてる隠れ蓑なのか・・」
美希「美醜に対する世間の厳しい目からの隠れ蓑・・ってことなんですかね」
山下「だとしたら・・どうして今になって、世の中の美醜に対する目は厳しく
なったんでしょうかね・・どうして、今になって」
美希「有希子はその嵐の海へ一人漕ぎ出そうとしているんです・・きっと」
山下「有希子さんが望んで整形をして、それでどんなふうに人生が変わるの
か、私にはわかりません」
美希「・・・はい」
山下「医者にできることは患者が病気を治すことの手助けだけです」
美希「はい、本間丈太郎先生の言葉ですよね」
山下「そうです・・でも、有希子さんの場合は、整形ですから、病気ではない
んですけどね、厳密には」
美希「いえ、病気だと思います」
山下「そうですか?」
美希「ええ・・病気と言ってもいいものでしょう。でも、有希子だけが煩って
いる病気ではない」
山下「そうですかね、やっぱり・・」
美希「もっと大きな病気、みんなが煩っている病気・・なんて言っていいかわ
かりませんが・・病気だと思います」
山下「わかります」
美希「その病を克服しようとしているんです・・それでも、それがわかったと
してもって思うんです。お時間をいただいて、お話を伺ってこんなことを言う
のもあれですけど、やっぱり私は暖炉の上の写真の彼女が好きです。そう思っ
ていいんだと、こう思う気持ちは間違っていないと『ブラック・ジャック』か
ら教わったんです。でも、それでも・・有希子は選択したんですよね」
山下「そうです」
美希「つらかったんでしょうね」
山下「おっしゃってました」
美希「決断したんですよね」
山下「ええ・・」
美希「有希子は・・有希子はきれいなんですよ、そのままで・・」
山下「ええ・・」
美希「充分・・きれいなのに」
山下「ええ・・」
美希「ねえ・・ですよね・・」
山下「(頷いて)毎日、いろんな方がいらっしゃいます」
美希「ええ・・」
山下「人それぞれ、いろんな悩みや、相談やなんかをして・・話を聞きます」
美希「ええ・・」
山下「そのたびに思うんです・・『ブラック・ジャック』の次の話、二百四十
三話目は、この話なのではないか、って・・」
美希「そうですかね・・・そうですよね」
山下「ブラック・ジャックはもういないのに『ブラック・ジャック』はまだ続
いている」
美希「そうですよね・・」
  ゆっくりと暗転していく。