第104話  『23区のノアの方舟』
  明転すると工藤慎一の部屋。
  カンちゃんが一人、突っ立って工藤の本棚に並べてある本の背表紙を読んでいる。
カン「メディシン、アンド・・シュガリーオブ・・(自信が持てなくなって)シュガリー、シュガリーオブ・・なんだ、シュガリーって、砂糖みたいな? え、うそうそ絶対うそ・・」
  と、やって来る工藤。
工藤「今日、本当ありがとね」
カン「あ、いやいや大したことないよ」
工藤「すぐにわかった? 相手の人は?」
カン「うん、わかったよ、言われた通り小脇に東京ウォーカー挟んでたし」
工藤「よかった・・すれちがったりしてたらね」
カン「大丈夫、大丈夫」
工藤「どんな人だったの?」
カン「え? シンイチの知り合いじゃないの?」
工藤「あ、いや、会ったことはないんだよ。メールでやりとりはずっとしてたんだけどね」
カン「へえ、ああ、そういう関係か」
工藤「まあ、座ってくれよ」
カン「あ、ああ・・なんかどこに座ったらいいんだかって・・」
工藤「どこでも」
カン「外から見ると普通のマンションなのに、一歩中に入ると、動物園だね」
工藤「うん、誰にも内緒でね、工事すんの大変だったけど」
カン「立派な動物園だよ」
工藤「うん、カメしかいない動物園」
カン「これは・・リクガメ?」
工藤「おっ! 詳しいね。そう、リクガメ」
カン「リクガメくらい俺にだってわかるよ(と、さっきの本棚の方へ向き直り)シンイチ、おまえすごいな、こんな英語の本、読んでんのかよ」
工藤「ん、まあね・・」
カン「英語のこんな洋書、読めるんだ」
工藤「無理矢理にでも読まなきゃしょうがないからさ・・だって日本だと俺が必要としている専門書ってあんま出てないからさ・・」
カン「へえ・・」
工藤「英語の翻訳ソフトの精度も昔にくらべたらかなりよくなって来てるからさ」
カン「ああ・・一応、英語の翻訳ソフト訳すんだ」
工藤「ソフトで荒く下訳しておいて、それから翻訳ソフトがわからないような専門用語を訳していく」
カン「(再び背表紙を読み始める)ザ・リアリーユーズフル・・ハンドブック、オブ・・レプティル・・ハンズ・・バンダリー」
工藤「『The Really Useful Handbook of Reptile Husbandry』」
カン「これはなに? どういう本?」
工藤「これはねぇ、すごいよ、良い本なんだ」
カン「それは・・どんなふうにすごいの?」
工藤「んとね、四つの章に分かれてるんだけどまず爬虫類と両生類の問診票がついててそこに書き込むようになってるの」
カン「問診票?」
工藤「問診、病気して病院行ったら、お医者さんからさ聞かれるでしょ、問診っての」
カン「問診はわかってるよ」
工藤「その問診が表になってて書き込んでいくようになってるんだよ」
カン「小学校のドリルみたいに?」
工藤「まあ、まったく違うってわけじゃないけど、そんなもんかな」
カン「へえ・・」
工藤「それで飼育の方法が、間違っているかどうかってのが、問診に答えていくと判る仕組みになってるの」
カン「え? カメの問診票の本?」
工藤「そう、そういうこと。それで、問診票によって、今、その人が飼っているカメにはどんな問題があるのか? が次の章でわかる。さらに、飼育の間違いによって異常を発した症例が写真入りで載ってるから、これが助かる」
カン「いろんな、病気のカメの写真集がついてるんだ」
工藤「そう、これはねえ、もう百聞は一見にしかずってのは、このことだよ、カンちゃん」
カン「うん・・うん、そうなんだ。え、でも、これはどういう人が購入する本なの?」
工藤「爬虫類とか両生類ってのはエキゾチックアニマルって呼ばれてるんだけど、そのエキゾチックアニマルの専門医じゃないかな」
カン「獣医さん?」
工藤「エキゾチックアニマルを専門で見る獣医さん」
カン「でも、シンイチは獣医ってわけじゃないだろう」
工藤「獣医じゃないけど、獣医と同じような知識は必要なんだよ、だっていざって時に、うちのリクガメ連れて町の獣医さんとこに駆け込むわけにはいかないんだ。この部屋にいるリクガメは本当は日本に持ち込まれてはいけない動物だからね」
カン「え? なに? それはどゆこと?」
工藤「ワシントン条約ってのがあんだろ? あれで輸入が全面的に禁止されているリクガメなんだよ。絶滅種に指定されているから、全世界で四百頭くらいしかもういないんだ」
カン「ワシントン条約か・・」
工藤「だからここに、これがいるのはね・・(と、唇に指を当て)!」
カン「そのさあ、ワシントン条約で持ち込んじゃいけないことになっている動物を持ち込んでいることがばれたら、どうなるの?」
工藤「まず、輸入品の没収」
カン「じゃあ、ここにいるカメも?」
工藤「没収だね」
カン「うひゃあ・・」
工藤「それから罰金の支払いの通告」
カン「罰金もあんだ」
工藤「五十万以下の罰金」
カン「五十万・・あ、でも、シンイチ金持ってるからそこは平気か」
工藤「そうねえ、その金払わないと五年以下の懲役だから」
カン「懲役・・カメ持ち込んで、きちんとこんな環境で大事に育てているのに?」
工藤「さらに条約違反の輸入は外国為替及び、外国貿易法違反にもなるから、さらに百万以下の罰金か、または一年以下の懲役になるんだよ」
カン「シンイチ、おまえ、そんな危険をおかしても、このリクガメを・・」
工藤「危険かあ・・自分ではあんま危険って思ってないんだけど・・俺は危険かもしれないけど、こいつらにとってはここが世界中で一番安全な場所なんだよ。こいつら絶滅に瀕しているリクガメだからね。結局、こうして生活していた環境と同じ状態を作りだして、その中で必要な餌を与えて、交尾させて住まわせる方が、地球上のどこかの生息地を保護して環境を整備するよりも安全で確実な方法なんだ。そのために俺はこのマンションを買って、中をリクガメ専用の空間に改造したんだからさ」
カン「え? このマンションはシンイチの持ち家なの?」
工藤「そーだよ」
カン「持ちマンション?」
工藤「そーだよ」
カン「へえ、ゲームのデザイナーってそんなに稼げるんだ」
工藤「普通のサラリーマンよりかはね・・多少いいかもしれないけど」
カン「多少? 多少ってなんだよ、俺なんかねえ、この先・・ドラエモンが誕生する頃になっても、マンションなんか買えないんだから。だいたい、ローン組めないし」
工藤「俺だって、ローンはダメだよ」
カン「え? ローンダメ? ローンダメなの?」
工藤「ダメだね、そのへん、ゲームデザイナーって、ミュージシャンとあんま変わんない」
カン「え! え? ええっ?」
工藤「な、なんなんだよ。今、カンちゃんはどこにひっかかって、なにに驚いているんだよ」
カン「ミュージシャンってなに? ローンが組めないの?」
工藤「組めないね」
カン「なんで?」
工藤「同じ浮き草稼業だからじゃないかな」
カン「だって、浮き草っていったって、何億も稼いでる歌い手さんとかいるわけでしょう?」
工藤「今、何億稼いでいたとしても、明日はどうなるかわかんないからね」
カン「坂本教授も?」
工藤「坂本龍一?」
カン「そうだよ、世界のサカモトだよ」
工藤「カンちゃんの中では、ミュージシャンの一番上は坂本龍一なんだ」
カン「とりあえずね、とりあえずはそうだよ」
工藤「聞いたことあるよ、坂本教授でもローンが組めないんだって」
カン「ダメか・・坂本教授も」
工藤「っていうか、教授は教授なんだからさ、別にローンなんか組まなくったって、キャッシュで買えばいいだろ、キャッシュでさ」
カン「あ、まあ、そうなんだけどね」
工藤「手元にキャッシュはあるんだからさ」
カン「え、慎一、おまえもローンが組めないのに、ここが持ちマンションってことは・・おまえも?」
工藤「キャッシュだよ」
カン「キャッシュ! 現金か」
工藤「そうだよ、キャッシュは現金だよ」
カン「買ったの?」
工藤「だから、そうだってば」
カン「い、いくらで?」
工藤「え?・・んとね・・」
カン「おいくら万円?」
工藤「四千八百万・・」
カン「四千八百万・・」
工藤「プラス内装に一千二百万」
カン「ってことは、六千万」
工藤「に、プラス消費税が三百万で、全部で六千三百万・・かな」
カン「消費税が三百万? 慎一」
工藤「なんだよ」
カン「おまえの話は突っ込みどころが満載だな」
工藤「六千三百万・・まあ、しょうがないよ、全てはリクガメの種の存続のためだ」
カン「うひゃあ・・・」
工藤「ゆくゆくは、もっとリクガメの種類も増やして、数も多くしていこうと思っているからね。保温が一番、神経を使うんで、そこには金使ったよ。ケージの床は全部、底面ヒーターになってて、カメのおなかを温めてるんだ。それからあれ」
  と、ケージの上の方にある幾つかのライトを示し。
工藤「天井に配置されているライトは、ケージの中の空気の温度を上げてくれるのはもちろんだけど、あれはスポットライトになっていて、床の砂の数カ所を部分的に高温にしてるんだ。カメは自分の体が温めたくなったら、スポットの明かりの近くに行くし、代謝活動を低下させて睡眠なんかをとる時は、離れるっていう感じで、自分で体温を調節できるようにしてやらなきゃなんないんだ」
カン「いたれりつくせりだ」
工藤「除湿して乾いた空気を常に供給するための空調が(と、示し)あれ」
カン「こんだけ大きなケージがあれば、いっぱいリクガメが飼えるだろうねえ」
工藤「ここだけじゃない・・まだあるんだ」
カン「え? 別の部屋に?」
  と、カン、奥の部屋を覗こうとするが。
工藤「下の部屋に」
カン「下の部屋? だってここはマンションだろう?」
工藤「下の五○三も、俺、買っちゃったんだ」
カン「それも持ちマンション?」
工藤「あと一○四号室も・・」
カン「三つ? 持ちマンションが三つ?」
工藤「うん、全部リクガメ用」
カン「三つ持ちマンション? ちょっと待てよ、俺達同じ年なんだぞ」
工藤「知ってるよ、そんなことは」
カン「三つかよ・・えっと、それもみんなキャッシュってこと?」
工藤「そう、ローン組めないから」
カン「六千三百万掛ける三・・一億八千九百万?」
工藤「全部、リクガメのため」
カン「シンイチ・・」
工藤「え? なに?」
カン「笑顔が不気味だよ」
工藤「うそ、俺、今、心の底から笑ってるんだけどな」
カン「そのワシントン条約で持ち込みが禁止されている動物をシンイチはどうやって持ち込んだんだよ」
工藤「俺が持ち込んだんじゃないよ」
カン「じゃあ、誰が?」
工藤「それはわかんないんだ」
カン「わかんない? ってことは、誰かがどうにかして持ち込んだ物が、いつの間にかシンイチの手元に来たってことなの?」
工藤「わかんないんだ」
カン「わかんないってことないだろう、こんな貴重な生き物がさ」
工藤「そうなんだ、こんな貴重な生き物がなんで都内を一人でうろうろしてたのか・・わかんないんだ」
カン「え? 一人で都内をうろうろ?」
工藤「それがこのヘサキリクガメとの出会いだった。ほら、最近、よくあるじゃない、日本にいるはずのない動物が、排水溝やら池やら沼やらで見つかるって」
カン「あるけど、あれはあれだろ、飼いきれなくなったとかで、無責任な飼い主が捨ててるんじゃないの? でも、それより前にさ、ワシントン条約で日本に持ち込めないってことなんじゃないの?」
工藤「まあ、可能性があるのはこいつがペットショップに輸入されてきた時、誰もそんな貴重なものだとは気づかないで、普通のリクガメに混じって売られていた・・ということかなあ」
カン「そして、飼いきれなくなって捨てられて・・」
工藤「俺と出会った・・」
カン「でも、これから先もそんなふうに、偶然、道端でワシントン条約で輸入が禁止されている絶滅種のリクガメと、ばったり出会い続けるってわけにはいかないだろう?」
工藤「それはもちろんそうだね」
カン「どうやってこの先、リクガメの数を増やして行くんだよ」
工藤「どんな世界にもルートはあるんだよ」
カン「ルート?」
工藤「杉並区の善福寺の近くにね、こっそりと絶滅種のペンギンが十四羽、飼育されているんだ」
カン「ペンギンがそんなに? 動物園でもないのに」
工藤「南アフリカのケープタウン沖で沈没した貨物船から流出した燃料用重油がケープペンギンのね、主要な繁殖地であるダッセン島、ロベン島に漂着し、ペンギンはもちろん数多くの海鳥や海洋生物の大量死をまねいたんだ。それで親鳥が約二万羽、安全な場所に移送されたんだ。その時、見捨てられた雛が七千羽いたって言われてる」
カン「どうしたの? その七千羽の雛は?」
工藤「一部の雛を動物売買の業者が勝手に引き取とっていった」
カン「密売団のようなところ?」
工藤「そう・・世界中のペンギンマニア達に売って歩いた。その時、当然、日本にもその一部のペンギンが密かに送られ、高値で売買された」
カン「誰が買ったの?」
工藤「だからペンギンの愛好家だよ」
カン「そいつらがこっそりペンギンを購入して、自宅で飼ってる」
工藤「そう、今でもね」
カン「え? え? え? ペンギンって自宅で飼えるものなの?」
工藤「そりゃジュウシマツをカゴで飼うのとはわけがちがうからね、サーモスタットで水温を管理できるプールがある家でないとね」
カン「それがルートってやつか」
工藤「それだけじゃない。ネットで売り買いもされているしね」
カン「ネットはあるだろね」
工藤「でも、そういう手段も使っていかないと、絶滅種は生き延びることができないんだよ」
カン「それはもう、ノアの方舟じゃねえかよ」
工藤「そうだね」
カン「ってことは、シンイチ・・おまえがノアかよ」
工藤「そういうことに・・なるね」
カン「僕はいつの間にか、自分でも知らない間に、方舟の中に足を踏み入れていたというわけか」
工藤「そういうことだよ、カンちゃん」
カン「・・まさか、自分がノアにお目にかかれるとは思ってなかったよ・・光栄だよ」
工藤「面と向かって言われると・・なんとも照れ臭いな」
カン「小学校四年生の時、同じクラスになって以来ずっと・・」
工藤「ああ・・四年二組川端学級だ」
カン「あれから十八年・・・おまえはノアになり、絶滅動物と共に方舟に住んでる。そして、片や僕は、朝七時半から、駅前でティッシュを配り続けている日々だ・・この十八年、いったいなにがあったんだろう・・いったい、なにがなかったんだろう・・・」
  間。
カン「シンイチ、さっき、僕が運んできたあの箱の中には、なにが入っていたんだ? 受け取ったら、なるべく振動を与えずに、そっとできるだけ早くシンイチの手元に運んできて欲しい、って言われたあの箱だよ」
工藤「なんだと思う?」
カン「もしかして、今、僕が想像しているもので合ってる?」
工藤「たぶん」
カン「あの箱の中にもリクガメが・・」
工藤「(頷いた)・・・」
カン「僕は今日・・リクガメの運び屋をやったってわけか」
工藤「・・頼める奴が他にいなかったんだ」
カン「いいよ、別に」
工藤「ごめんな、カンちゃん」
カン「いいって、謝るなよ、いいじゃないか、それでまたここにリクガメが一匹増えたんだろ?」
工藤「いや、それがね、ちがうんだよ」
カン「ちがう? なにが?」
工藤「今日、カンちゃんが受け取ってきてくれたカメはさ・・俺が欲しいヘサキリクガメじゃなかったんだよ。ギリシャリクガメだったんだよ」
カン「ギリシャリクガメ?」
工藤「そのへんのペットショップで手に入る、普通のリクガメなんだ」
カン「ワシントン条約は?」
工藤「関係ない」
カン「シンイチ、じゃあ・・」
工藤「騙されちゃった。どうりで顔を合わせたくないから代理人を寄こせって言ってきたわけだよ。まあ、裏のルートだからね、こういうこともあるさ」
カン「シンイチ」
工藤「ん?」
カン「ノアやってくのも大変なんだなあ」
工藤「俺だけじゃない・・みんな似たり寄ったりの苦労をしてるからねえ・・そんな話はしょっちゅう聞くよ」
カン「みんな?」
工藤「ノアは俺一人だけじゃないんだよ」
カン「どういうことだよ?」
工藤「実はノアはいたるところにいるし、方舟もまた、街の中に点在しているんだ」
カン「え? ええっ?」
工藤「噂にもならないし、誰も自分からは名乗りを上げたりはしないから、みんな知らないだけなんだ」
カン「シンイチ、おまえだけじゃないのか、こんな酔狂なことをしているのは」
工藤「人に知られぬよう、こっそりとあらゆるところにあるんだ、板橋区のマンションでは北ミクロネシアに住むクリスマスグンカンドリのための海水がいつも運び込まれているし、葛飾区の立石のマンションではサバクオオトカゲを飼うためにサハラ砂漠と同じ年間を通じて三十度を下回ることのない気温を作り出す灼熱のケージがあるし、練馬区の富士見台にはハイイロペリカンのための赤道の南の気候が用意されているし、新宿区百人町の一軒家の大きな地下室にはパラワンコクジャクの方舟が・・フクロネズミのオナガミンソプシス、フィリピンオオコウモリ、コビトキツネザル、ミミナガコモンマーモセット。みんなが知らないだけで、東京二十三区の中に実は世界中のあらゆる気候が密かに再現されているんだ。東京都の地図の上に、曼陀羅を重ねて広げたように・・・」
カン「もし、また受け取りに行かなければならないことがあったとしたら、呼んでくれよ」
工藤「犯罪の片棒だよ」
カン「でも、俺は頼まれたものをもらってきているだけで、中身がなんなのか全然知らないんだから」
工藤「知らなくても犯罪は犯罪なんだよ」
カン「犯罪を犯さないと救えない命もあるってことなんだろ」
工藤「それはそうなんだけどね」
カン「・・生きろよ、リクガメ」
  音楽、カットイン。
  ゆっくりと暗転していく。