第102話  『有吉慎太郎』
  明転するとそこは老人介護のセミナー会場。
  龍之介とすみれが並べられたパイプ椅子に並んで座っている。
  マイクを使った講師の声が聞こえている。
  二人、それを聞きながらメモを取り、しきりに頷いたりしている。
講師の声「例えば、ご飯を炊こうとして炊飯器のスイッチのどこを押すのかわからなくなるのが、いわゆる物忘れというもので、ご飯を炊こうとして炊飯器ではなくガスレンジに入れてしまう、ご飯はどうやって炊くものなのかがわからなくなっている、これが認知症、ボケと呼ばれているものです・・物忘れは固有名詞が出てこない、やり方を忘れる、といった事が主なものですが、認知症の場合、自分の母親を娘と勘違いするといった認識に障害が表れることを言います。では、ここから十分間の休憩を挟みまして、ボケに向き合うことについて、実際の例を元に解説していきたいと思います・・それでは十分間の休憩です」
  ブチ! っというマイクのスイッチが切れる耳障りな音がしたかと思うと、とってつけたようなリクライニングミュージックが小さく流れ始める。
  ざわざわと人が立ち、喫煙室へと向かう者、飲み物を取りに行く者・・
  その中で、龍之介とすみれは動かない・・
すみれ「あの・・」
龍之介「はい」
すみれ「ご家族にどなたかいらっしゃるんですか?」
龍之介「あ・・いえ、僕は仕事で・・」
すみれ「仕事? 福祉関係の方なんですか?」
龍之介「ん・・福祉とはちょっと違うんですけど・・」
すみれ「ちょっと違う?」
龍之介「役所にですね」
すみれ「ええ」
龍之介「市民相談室ってのがあるんですよ」
すみれ「ああ・・すぐやる課のある」
龍之介「そうですそうです・・僕はそのすぐやる課の職員なんです」
すみれ「すぐにやらなければならないことは、今すぐやりましょう、のすぐやる課ですね」
龍之介「ん・・すぐにやらなければならいことはすぐにやります、市民相談室すぐやる課です」
すみれ「あれは本当になんでもすぐにやるんですか?」
龍之介「ええ・・そうです」
すみれ「なんでも?」
龍之介「なんでも・・基本的には困っていらっしゃるなら、なんでもやります」
すみれ「もしもの時は、お世話になるかも知れません」
龍之介「もしもの時?」
すみれ「ええ・・うちのが徘徊して行方不明になったりしたら、すがりに行くかもしれません」
龍之介「ご家族の方に?」
すみれ「家族・・のようなものです」
龍之介「家族のようなもの?」
すみれ「あまり大っきな声では言えないんですけど」
龍之介「ええ・・」
  と、すみれ、声を顰め。
すみれ「猫なんです」
龍之介「猫?」
すみれ「家の猫が痴呆になって・・」
龍之介「猫? 猫がボケちゃったんですか?」
すみれ「ええ・・それで・・それでもうどうしていいかわからなくなって・・」
龍之介「それで(と、自分の正面を指さして)老人介護のセミナーに?」
すみれ「(頷いた)・・・」
龍之介「え? でも、これは人間のボケと認知症のセミナーですよ」
すみれ「ええ、わかってます・・」
龍之介「猫のことでいらっしゃったんですか?」
すみれ「声が大きすぎます」
龍之介「(声のボリュームを落として)あ、すいません」
すみれ「みなさん、ご家族の誰かがボケたり認知症になって苦しんでいらっしゃるのに、私はそんなところに猫のことで来ているってばれたら・・」
龍之介「ばれたら?」
すみれ「ばれたとしたら・・」
龍之介「ええ・・ばれたとしたら・・どうなるんです?」
すみれ「いえ、それはわかりませんけど・・なんだか、悪いような気がして」
龍之介「別に悪くはないんじゃないんですかね」
すみれ「いや、でも・・ほら、問題の次元が違うって怒られるんじゃないかって、始まった時からずっとびくびく、びくびくしてたんですよ、バレたらどうしようって・・」
龍之介「大丈夫でしょう、猫でも人でも」
すみれ「絶対?」
龍之介「いや、絶対って言われると」
すみれ「絶対大丈夫だと思いますか?」
龍之介「うん・・そうですね、それはちょっと誰にもわからないことですね」
すみれ「ですから、この事は私と」
龍之介「柳沢です・・柳沢龍之介です」
すみれ「柳沢さんの・・ね、あれってことで」
龍之介「はい、あれですね・・わかりました。じゃあ、もう、これからは話の中に『猫』って単語を入れるのは、なしってことで」
すみれ「はい、そうしていただけると助かります」
龍之介「で、その・・彼ですかね、彼女なんですかね、痴呆になっちゃったのは」
すみれ「彼です」
龍之介「ちなみにお名前は?」
すみれ「シンちゃんって呼んでますけど・・正しくは有吉慎太郎です」
龍之介「慎太郎君」
すみれ「今、都知事のほら」
龍之介「石原慎太郎!」
すみれ「そうです、そうです、あの人から勝手にもらった名前で、慎太郎です」
龍之介「それは・・もしかしたら一緒に生まれた猫の兄弟とかがいるんじゃないんですか?」
すみれ「『猫』(という単語)は!」
龍之介「あ、すいません」
  と、龍之介、ちょっと身を屈めてみたり、あたりの様子をうかがってみたりする。
すみれ「ええ・・一緒に生まれたやっぱりオスの・・」
龍之介「オスっていう(言葉も)のも・・」
すみれ「あ・・そうですね、弟がいたんですけど」
龍之介「もしかして名前は・・裕次郎?」
すみれ「そうです、裕次郎です」
龍之介「その弟さんは」
すみれ「先に亡くなりました」
龍之介「ですよね・・」
すみれ「よくおわかりですね」
龍之介「ええ・・こういうのだけは当たるんですよ」
すみれ「シンちゃんは今年で二十八になります」
龍之介「二十八? そんなに長生きするものなんですか・・あれは」
すみれ「ええ、最近は食べる物もよくなってますし、お医者さんの技術も発達してきましたから、どんどん寿命が伸びているらしいんですよ。だから、町の動物病院に行っても、これまでそんなに長生きした例もないし、ボケた例もないんで、どう対処していいかわからないって言われて・・どうしようもなくなって・・それで・・人間のセミナーが参考になるかもって・・」
龍之介「そういうことですか」
すみれ「ええ・・」
龍之介「二十八か・・長生きですねえ」
すみれ「あの・・すいません」
龍之介「なんですか?」
すみれ「(声を一応顰めて)この場所で猫って単語はもちろん出さない方がいいと思うんですけど、会話の内容を聞いてあの二人はおかしい、なにを言ってるんだって思われるのもよくないと思うんですよ」
龍之介「あ、はいはい、そうですね」
すみれ「二十八歳、うわ、長生きですね、っていうのは・・どうなんでしょう」
龍之介「おかしいですね、ここは老人介護のセミナーなんですから」
すみれ「さっきから、いろんな人の例があがっていて、七十六歳の方や、八十二歳の方とかが出てるじゃないですか」
龍之介「確かに」
すみれ「その中で、二十八歳、長生きですね、っていうのはどうかと思いますけど・・」
龍之介「それはやっぱり(と、さらに声を小さくして)『猫』の年齢だからですよ、その猫の二十八歳ってのを、人間の年齢に置き換えると何歳くらいになるものなんですか?」
すみれ「(ここでようやく普通の会話の声に)そうですね、人間で言うと」
龍之介「人間だと?」
すみれ「百七十五歳くらいらしいですよ」
龍之介「(改めて驚いている)百七十五歳ですか」
すみれ「ええ・・百七十五歳です」
龍之介「待って下さい、ちょ、ちょ、ちょ待って下さい・・人間は百七十五歳まで生きませんよ」
すみれ「それはそうですよね」
龍之介「なんなんでしょうねえ、人間で言うと百七十五歳って、人間で言うって言ってるのに、言えてないじゃないですかね」
すみれ「でも、人間の年齢に換算する方程式があって、それできちんと計算したんですけど・・」
龍之介「え? そんなのがあるんですか?」
すみれ「ええ・・」
龍之介「人間の年齢に換算する方程式?」
すみれ「そうです」
龍之介「でも、考えようによっては百七十五歳っていう、人間は生きたことのない年まで長生きしてるってことか」
すみれ「ボケてくるのも当たり前っちゃ当たり前なんですけど。でも、あんなにわかりやすくボケ始めるとは思ってもみなかったんで・・」
龍之介「さっき食べたのに、ご飯まだ? とかですか」
すみれ「そう、それなんです」
龍之介「本当ですか?」
すみれ「ご飯食べたでしょ? って言ってあげてもキョトンとしているんです」
龍之介「本当にあるんですか? そういうことが」
すみれ「あと、私のことが時々、わからなくなるんですよ・・もう、二十八年も一緒にいるのに・・私がわからないだけじゃなくて、初めて会う宅急便屋さんのお兄さんにすりよって行ったり」
龍之介「さっきの(セミナーでの)お話にあったみたいに、奥さんと娘の区別が付かなくなるってことが・・」
すみれ「そう、そうなんですよ」
龍之介「慎太郎君にも」
すみれ「・・猫なのに」
龍之介「猫にも、ねえ、あるんですか」
すみれ「どうして年をとるとああやっていろんなことを忘れて行くんですかね」
龍之介「忘れていくっていうか、わからなくなっていくんですね」
すみれ「わからなくなっていく・・」
龍之介「ねえ・・」
すみれ「私のことも・・」
龍之介「みんなみんなわからなくなっていく・・人も、猫も・・わからなくなっていく・・」
すみれ「・・もしかしたら、猫だけじゃなくて」
龍之介「生きとし生けるモノすべてが」
すみれ「わからなくなって、そのあげくに死んでいくものなんですね・・頭ではなんとなくわかっていることではあるんですけど、そうなっていくシンちゃんを目の当たりにすると・・やっぱり・・」
龍之介「ああ・・いろんなことを忘れていって・・最後になにが残るんですかね」
すみれ「シンちゃんはほら、オスじゃないですか」
龍之介「(オスではなく)男性ですよ」
すみれ「あ、そうですね、オスとか言っちゃ」
龍之介「ダメですよ」
すみれ「シンちゃんは、男性なんですよ」
龍之介「ええ・・」
すみれ「ボケていても、ね」
龍之介「どういうことですか?」
すみれ「彼は・・外にでて、うろうろ近所を徘徊するんですけど」
龍之介「徘徊って、猫なんですから散歩って言った方が」
すみれ「ああ・・なんか紛らわしいですね。動物だとそれでいい言葉が、人間だとダメだったり」
龍之介「そう・・それで散歩して」
すみれ「探しに行くと、道の端でよたよたよたよたしながらも、フウフウって鼻息を荒くしてるんですよ」
龍之介「ええ・・」
すみれ「街の女性を狙ってるんです」
龍之介「女性って・・メスの猫ってことでしょう」
すみれ「ええ、そうです・・そうなんです」
龍之介「よたよたよたよたしながら、メス猫狙って、シンちゃんはどうしようってんですか?」
すみれ「まだ、あわよくば! って思ってるみたいなんですよ」
龍之介「あわよくばなにを?」
すみれ「ねえ・・」
龍之介「二十八歳なんでしょう」
すみれ「そうなんです」
龍之介「人間でいうと百七十五歳なんでしょう?」
すみれ「そうなんです」
龍之介「それでなにがあわよくばなんですか?」
すみれ「だから、ボケても男性なんだなって」
龍之介「ああ・・ねえ・・そこはボケないんですね」
すみれ「そこはボケないっていうか、ボケてるからそうなのか・・」
龍之介「最後に残るのはそれなんですかね」
すみれ「シンちゃんの場合はそれだったみたいですね」
龍之介「僕は・・今の話、笑えないですね」
すみれ「人の心の奥底にある、業っていうんですかね」
龍之介「人じゃありませんよ」
すみれ「猫の心の底にある、業っていうんですかね」
龍之介「猫の心の底にある業?」
すみれ「そうですよ・・でも、そうやって街の女性に発情しているシンちゃんを見て、私はもう・・愛しくて、愛しくて、思わず駆け寄って抱きしめちゃいました」
龍之介「ああ・・わかります、わかります、そういうの・・」
すみれ「そしたらですね」
龍之介「ええ・・」
すみれ「抱きしめたとたんに、じゃーって失禁ですよ」
龍之介「ああ・・」
すみれ「じゃーって」
龍之介「・・かわいいじゃないですか」
すみれ「もう二十八年ですからね・・主人に先立たれて、子供も成人して家を出ちゃったら、二人きりになるわけじゃないですか」
龍之介「二人きり・・」
すみれ「あ、いえ、正確には一人と一匹ですか・・」
龍之介「あ、いや、そこは二人でいいじゃないですか」
すみれ「そうですか?」
龍之介「そこは二人でいいと思います」
すみれ「そうですか」
龍之介「・・二十八年ですか」
すみれ「いつもいつもシンちゃんが座っていたお気に入りの場所があるんです」
龍之介「ああ、シンちゃんの家(うち)での定位置」
すみれ「そうです、そうです。タンスの上なんですけど・・昔は一気に飛び上がっていたんですけど、ある時からジャンプする力がなくなっちゃったみたいで、ずっとそのタンスの上を見上げているんですよ。なんで上に飛び上がらないのか、不思議に思ってたんですけど」
龍之介「そこまで飛び上がれなくなっちゃってた・・」
すみれ「それが一番悲しかったことですね、私は・・いろんなものを見てきたはずなんですよね・・あのタンスの上で。うちの子が生まれた時の事もね、はいはいして、歩き出して、学校にあがって・・ねえ・・下の子は中学の時にちょっと暴れたんですけど、それで私が泣いてたら、側に来て膝のここんところを噛んで励ましてくれたんです・・あの時は嬉しかったですね。主人もちょうど単身赴任中だったもので・・私、一人でどうしていいのかわからなくて・・私の育て方が悪かったのかって、ちょっと自分を責めてたりしてたんで・・シンちゃんがね・・ここをカプって噛んでくれて・・」
龍之介「そうですか」
すみれ「そんなこともね・・あんなこともこんなこともみんな忘れていくんですね・・」
龍之介「ええ・・」
すみれ「・・カプってね、ここんところを噛んでくれたんですよ・・・」
龍之介「カプって・・」
すみれ「カプって」
  ゆっくりと暗転していく。