第101話  『速読教室、夜間の部』
  明転すると、長机が二つ並んでいてパイプ椅子に座った男二人が猛烈な勢いでマンガの本のページをめくっている。
  代沢速読教室
  猿渡快と工藤慎一。
  二人あっという間に本を読み終えた。
  そして、同時に本を置いた。
  バン!  
工藤「いいわ!」
猿渡「いいですね」
工藤「いやぁいいわ」
猿渡「いいよねぇ」
工藤「いいわ」
猿渡「本当、いい」
工藤「ん・・いいですね」
猿渡「ねえ」
工藤「ねええ」
猿渡「いい本、勧めてもらって・・」
工藤「いや僕の方こそ」
猿渡「『サンクチュアリ』!」
工藤「池上遼一」
猿渡「ねえ」
工藤「『愛と誠』! かあ、名前だけは知ってたんですけどねえ」
猿渡「マンガといえば今まで物心ついてからこっち、ずっと手塚治虫先生一辺倒できたもんだから、池上遼一とかはね、ノーマーク、盲点でした」
工藤「池上遼一の中でもこの『サンクチュアリ』は別格ですからね・・なんなんでしょうこのすごさは」
猿渡「ねえ・・」
工藤「ねえ・・」
猿渡「しかし、この速読教室に通いはじめて、一気に読書の量が増えたのももちろんですけど、なによりバラエティに富むようになりましたね」
工藤「速さは力ですね」
猿渡「よかった速読始めて」
工藤「最初はねえ、十分間で六万字から八万字読めるようになりますって言われても、半信半疑でしたからね」
猿渡「そうそう、そうですよね」
工藤「みんな、先生達が目の前で本のページをばらばらばらばらめくっているのを見て、嘘だあ! って思ったじゃないですか」
猿渡「文字を文字として読むのではなく、絵として認識して、ページ全体を見るようにする」
工藤「って言われてもねえ・・文字は文字として読んできたわけだから・・ねえ」
猿渡「十分で八万字・・角川文庫で百十五ページでしたっけ?」
工藤「そうそう、講談社の学術文庫とか、速読を習わなかったら、絶対に手に取らなかった本ですよ」
猿渡「そうですよね、本当にそうだ」
工藤「(あたりを気にして)まだ・・教室に残ってても大丈夫ですかね」
猿渡「なんかね・・いつもいい加減なんですよ、ここの警備員さん、いい意味で、いい加減」
工藤「みんなすぐ帰っちゃうから寂しいですよね」
猿渡「そんなに早く帰らなきゃなんないもんなんですかね」
工藤「僕は別に」
猿渡「まあ、僕も家庭はあるんですけど・・女房が速読教室の日は大目に見てくれるんで」
工藤「いい奥さんじゃないですか」
猿渡「まあ、その辺だけは・・」
工藤「僕はちょっと扶養家族がいるんですけど、でも、僕がいなくても大丈夫なようにはしてあるんで」
猿渡「扶養家族?」
工藤「ペットですね」
猿渡「ああ、そういう扶養家族ね・・」
工藤「そうです、そうです、かわいいんですよ、みんな」
猿渡「あ、けっこう数いるんですか」
工藤「ええ・・」
猿渡「うちはまだ子供が小さいんで、ペットとかってのは、動物、好きなんですけどね」
工藤「ああ、いいですよね、動物は」
猿渡「そうそう、子供の頃、友達の家に変わったペットとかいたりすると、見せてもらいに行ったもんです」
工藤「ああ、変わったペットねえ」
猿渡「でも、そういう奴に限って、遊びに行くと、その動物に触らしてくれないんですよね」
工藤「それはそうですよ」
猿渡「なんだよ、って、くやしい思いをしましたねえ」
工藤「まあ、触られて喜ぶ動物とそうでない動物ってのがいますからねえ」
猿渡「なんか、いろいろ思いだします、子供の頃のことを・・まさかこの年でねえ、学校に行くとは思わなかったし・・学校にはねえ、こういう放課後の時間ってのがあったんですよね」
工藤「忘れてましたね・・」
猿渡「マンガの貸し借りしてね」
工藤「どうでもいい話して」
猿渡「誰々君はなになにちゃんが好きなんだとかね」
工藤「そうそう」
猿渡「まあ、あの頃とちがうといえば、全十二巻の『サンクチュアリ』をあっという間に読めるようになったってことですかね」
工藤「十二冊のマンガ、今日貸して、今日持って帰れるんですから」
猿渡「本当、ありがとうございます」
工藤「いえいえこちらこそ・・『愛と誠』これこそがトゥルーロマンスですよ。よかった、早乙女愛と大賀誠にはね、もちろんやきもきさせられましたけど、それよりなにより、僕は高原由紀がね」
猿渡「ああ、入水して顔の半分がね・・」
工藤「ショックでしたよ」
猿渡「わかります、わかります」
  と、傍らの『サンクチュアリ』に手を伸ばした猿渡。
猿渡「『サンクチュアリ』・・」
工藤「いいでしょう」
猿渡「速読しても、余韻は十分残るもんですねえ」
工藤「そりゃそうですよ、早く読んだからって、余韻も早く消えるってことはないですから」
猿渡「特にこの最後の台詞がね・・」
  と、もう一度、読み始める。
猿渡「えっと、どこだったかな・・」
  そして、そのコマはあっという間に見つかる。
猿渡「これ、ここですよ」
  と、そのコマを工藤に見せる。
工藤「(も、見て)これね」
猿渡「これですよ、これ」
工藤「これね」
猿渡「これは・・」
工藤「いいですよね」
猿渡「この台詞「あの二人の心の中にこそ、その聖域はあった」
工藤「・・サンクチュアリ」
猿渡「かああぁ」
工藤「くうぅぅ」
猿渡「ねえ・・今だって、これまでだったら、このコマを見つけるためにも(と、本を普通にめくっていき)こうやってえーと、えーと・・ってなってたわけですよね」
工藤「そうです、そうです」
猿渡「それが今じゃあ(と、速読のめくり方になっていき)こんな、こんな、こんなですからね」
  工藤、笑っている。
工藤「速読教室に通い始めた時、友達に、なんでそんなところへ行くんだ、って言われましてね・・」
猿渡「なんで? って、なにがなんでなんですかね」
工藤「なんで、本をそんなに早く読む必要があるんだって」
猿渡「あ、ああ、そういうことね」
工藤「言われませんでした? そういうこと」
猿渡「それはまず、女房に」
工藤「言われました?」
猿渡「ええ・・」
工藤「なんでって言われても、速読やれば便利かなって思ったんですけど、みんなは便利って思わないで、そんなにしてまで、っていう気持ちの方が、ねえ・・」
猿渡「ああ、そうみたいですねえ」
工藤「でも、もう諦めてましたよ、年だし」
猿渡「工藤さんが年とか言ってたら僕なんか・・」
工藤「いや、本当にそうなんですよ。だって・・これから読めるマンガも小説も、速読しなかったとしたら、その数なんて限られてるわけじゃないですか」
猿渡「自分が読んできたマンガや小説の数を考えるとね・・これから読める数もおのずとね・・」
工藤「人が一生の間に触れる物語の枠をね、速読がね」
猿渡「飛躍的に広げてくれましたからね・・今まで手を出していなかった分野にも、目を向けてみようと改めて思いましたよ」
工藤「同感です」
猿渡「それで・・」
  と、また『サンクチュアリ』を手にとって。
猿渡「池上遼一ですよ」
工藤「でも、猿渡さんのところはマンガ喫茶なんでしょう」
猿渡「ええ・・そうです・・」
工藤「マンガ喫茶だったら、マンガ読み放題なわけじゃないですか・・どうして今まで池上遼一には?」
猿渡「それはそうですけど・・二万冊もあると、いったいどれから手をつけたものか? ただでさえ、毎週毎週マンガ雑誌は発売になるわけじゃないですか? 週刊誌ですらもう、読み切れないわけですよ」
工藤「でも、今はもう、読めるんですよ、猿渡さん」
猿渡「そうですよ、そうなんですよ」
工藤「二万冊ですか、猿渡さんのマンガ喫茶は」
猿渡「読み切れますかね」
工藤「希望が見えてきましたね」
猿渡「マンガ喫茶『まんがだらけ』がこの先も続いていくならね・・」
工藤「まんがだらけ」
猿渡「ええ・・まんがだらけの店だからまんがだらけ」
工藤「それはよく似た名前のお店から文句は出なかったんですか?」
猿渡「文句? 出ませんよ、そんな。マンガ好きに悪い奴はいません」
工藤「そうですか・・」
猿渡「マンガ好きに悪い奴はいないんですけどね・・マンガが好きではない奴ってのはろくでもない奴ばかりですね」
工藤「マンガが好きではない奴?」
猿渡「マンガ読みに来ないんですよ、マンガ喫茶に」
工藤「え? マンガ読みに来ないで、マンガ喫茶になにしに来るんですか?」
猿渡「最近はもうみんな、仮眠取りにきやがりますからね」
工藤「ああ・・そうですね、今はみんなそうかもしれない」
猿渡「信じられないですよ・・棚という棚にマンガがあふれている・・そんな場所に眠りに来るんですよ」
工藤「ええ・・ええ」
猿渡「自分が子供の頃、夢に見た場所を作り出したんです。仲の悪い兄に借金してまで」
工藤「ああ・・そうなんですか」
猿渡「そうですよ・・本当に。しばらくは店の方もまあ、順調でしたけどね・・でも、想像もしなかった方向にマンガ喫茶が発展していっちゃいましたから」
工藤「今、すごいみたいですね、マンガ喫茶は」
猿渡「マンガ喫茶に日焼けサロンの設備は必要なんですかね」
工藤「日焼けサロンですか」
猿渡「なんでマンガがひしめき合う部屋で、日焼けしなきゃなんないんですかね? なんでマンガがひしめきあう部屋で、仮眠とるんですかね? もうわけがわかりませんよ・・自分が古いタイプの人間であることは、わかっているつもりです・・でも、でもですね・・そんなのに迎合するくらいなら、もう、やめてやろうかと・・」
工藤「いや、早まっちゃいけません、早まっちゃいけません」
猿渡「まったくもってマンガをバカにしているじゃありませんか。今や世界に誇る日本の文化なんですよ。それを当の日本人がそんな態度でどうするんですか! 尊敬がない、愛情がない、なにもない!」
工藤「でも、だからといって早まっちゃいけません。ここで猿渡さんが辞めてしまったら、まんがだらけの二万冊のマンガはどうなるんですか?」
猿渡「それは、まあ・・」
工藤「まあ、なんですか? どうなるんですか?」
猿渡「あ、いや」
工藤「僕が全部もらっていいですか?」
猿渡「工藤さんが?」
工藤「もしもここで猿渡さんが辞めるのなら、マンガ、みんなもらい受けますよ」
猿渡「・・・・」
工藤「急に惜しくなりましたね」
猿渡「・・不思議なもんですね」
工藤「そんなもんですよ」
猿渡「・・お恥ずかしい」
工藤「いや、それでいいんです。今、もしも猿渡さんが、いや、それでも辞める意志は固いとか、二万冊のマンガなんてどうなったって、って言ったとしたら・・」
猿渡「ええ・・」
工藤「僕は殴ってましたね」
猿渡「・・そうですか」
工藤「ばかあ! って」
猿渡「そうですか」
工藤「マンガは大事にしましょうよ」
猿渡「そうですよね」
工藤「ええ・・マンガは大切なものなんですから」
猿渡「昔から、うちにはマンガだけはあったんです。だから、友達がみんなそれ目当てでやってきてて・・もっともっとマンガがあれば、もっともっと多くの友達が幸せになれるんじゃないかって思ってたんですよ」
工藤「素敵なことじゃないですか」
猿渡「でも、あの頃・・四十(しじゅう)過ぎても、自分がこんなふうに教室で友達にマンガを貸しているなんて、夢にも思いませんでしたよ」
工藤「僕もです・・」
猿渡「工藤さん・・」
工藤「はい」
猿渡「一度、いらっしゃってくださいよ、まんがだらけに・・私のマンガを読みに・・」
工藤「・・・・いえ、遠慮しておきます」
猿渡「・・あ、もちろん、お金はいりませんから」
工藤「あ、いや、そういうことじゃなくて」
猿渡「どうして・・ですか?」
工藤「子供の頃を思い出しちゃうんです。友達の家に行くと、自分よりもいっぱいマンガを持っている奴がいるじゃないですか・・それがくやしくて・・」
猿渡「・・・心が狭くないですか?」
工藤「そういう子供だったんです」
猿渡「でも、わかります。そういう奴もいましたよ」
工藤「いたでしょ」
猿渡「でも、そういう友達には、私は自分からマンガ持って、貸してまわっていました」
工藤「今となにも変わらないですね」
猿渡「ええ・・まったくなにも・・不思議なくらいに・・こうやって放課後に友達と教室に居残ってだらだらとしているのも・・」
工藤「ああ・・」
猿渡「子供の頃は、じゃあ、ちょっと帰りに飲みにいきましょうかってのがありませんでしたからね」
工藤「ぎりぎりまで教室に居残って、あとはちょっと道草して、家に帰るだけでしたからね」
猿渡「学校を出たら、もう・・」
工藤「手を振ってそれぞれの家のある方向に別れていく」
猿渡「そうです。手を振ってそれぞれの家の方向に別れる・・また明日って・・」
工藤「放課後ってそういうもんでしたね」
猿渡「そうだった、そうだった」
工藤「それが放課後ってもんだったわけです」
猿渡「そうですね」
工藤「なんだかそれが楽しかったんですよね」
猿渡「ぎりぎりまで・・教室にいて」
工藤「なにがあんなに楽しかったんでしょうね」
  二人、教室の席についたまま、動かずに・・
  ゆっくりと暗転していく。