第86話』  『大人の科学』
  居酒屋お気楽。
  テーブル席が一つ。
  龍之介と吉久が座って一献傾けている。
  後ろに『本日のおすすめ』が書かれている黒板。
吉久「いや、無理です、無理ですって・・」
龍之介「いやいやいや、待って、待って、ちょっと待って・・俺をさ、誰だと思ってるの? 市民相談室のね」
吉久「すぐやる課でしょ」
龍之介「そう・・すぐやる課だよ、すぐにやらなければならないことは、すぐにやります、市民相談室、すぐやる課・・」
吉久「でも、いくら、すぐやる課でも、できることとできないことがありますよ」
龍之介「そんなの話してみなきゃわかんないじゃない・・」
吉久「だって、宇宙の話ですよ」
龍之介「宇宙!」
吉久「宇宙・・」
龍之介「宇宙だろ・・うん、宇宙がどうしたの? 宇宙が何? 宇宙に今、すぐにやらなければならないことがあるってことなの?」
吉久「宇宙っていうか、厳密には地球の衛星軌道上なんですけど」
龍之介「うん・・ちょっと細かいことはわかんないけど、で、それで?」
吉久「ロケットを打ち上げたんですよ」
龍之介「うん・・」
吉久「ロケットを・・」
龍之介「うん・・」
吉久「俺が」
龍之介「え? 誰が?」
吉久「俺が?」
龍之介「ロケットを?」
吉久「ええ・・打ち上げたんです」
龍之介「・・・・うん・・ペットボトルかなんかのロケット?」
吉久「いや、ペットボトルじゃあ、衛星軌道まで行けないじゃないですか」
龍之介「行けないか、行けないよね・・」
  と、吉久、立ち上がって二メートル二十の長さを作ってみる。
吉久「こんな・・こんなもんですかね」
龍之介「でかいね・・」
吉久「全長二メートル二十センチ、三段ロケットですからね」
龍之介「そうだよね、ロケットって、こう切り離しながら、上がっていくもんだからね」
吉久「・・だから、宇宙に出たときに一メートルくらいかな(と、形を作る)こんなもんになるんですよ。直径が四十五センチで・・このね、一メートルの胴体の中に、実験の機材が積み込めるようになっているんです」
龍之介「実験の機材?」
吉久「ロケットを打ち上げるそれぞれの人がね、宇宙空間で実験してみたいことを、このスペースに搭載できるんです」
龍之介「それはなに、作ったの? 自分で」
吉久「いや、雑誌の付録でついてたんですよ」
龍之介「雑誌の・・ふろくぅ!」
吉久「雑誌の付録なんですよ、大人の科学っていう雑誌の」
龍之介「大人の科学?」
吉久「昔、ありませんでした、学研の科学と学習って」
龍之介「あった、あった、あった。学校の近所の文房具屋でみんなで並んで買ってたよ」
吉久「・・それの大人版が出たんですよ、最近・・それが大人の科学」
龍之介「それに二メートル二十センチのロケットがついているの?」
吉久「付録で」
龍之介「地球の周回軌道まで上がるロケット?」
吉久「・・すごいでしょう」
龍之介「すごい・・けど、すごいね・・ああ、そう・・そんなの売ってるんだ・・いくらで?」
吉久「値段は・・そうですね、軽自動車の新車と同じくらいですかね・・これくらいの箱で、こんな輪になってて、かしゃかしゃかしゃって伸ばして、組んでいくと・・」
龍之介「二メートル二十のロケットに」
吉久「あと、別にこれくらいの箱に、燃料とか、組立解説説明ビデオとかが、入ってるんです」
龍之介「それで、宇宙空間でどういう実験をしたの?」
吉久「蝶の孵化ですね」
龍之介「蝶の孵化?」
吉久「チョウチョですよ」
龍之介「うん、チョウチョね・・てふてふね」
吉久「無重力状態で、チョウチョはどうやって飛ぶか? っていうことをね」
龍之介「試してみたかったんだ」
吉久「ミカドアゲハという青い筋の入ったアゲハチョウの雄と雌の入った密閉水槽を積んで打ち上げたんです・・」
龍之介「どうなったの、無重力でチョウチョは」
吉久「どうなったと思います?」
龍之介「え、え・・え・・だって無重力だから羽ばたいてもねえ・・」
吉久「ねえ・・どうなるか不思議でしょう」
龍之介「どうなったの?」
吉久「わかんないんです」
龍之介「わかんない? なに、わかんないって?」
吉久「故障してしまったんです・・だから、そのチョウチョの映像が送られて来ないんです」
龍之介「あ、ああ、そう、そうなんだ」
吉久「どのあたりを漂流しているのかっていうのは、ビーコンの信号がでているからわかってはいるんですけどね・・」
龍之介「チョウチョを積んだ宇宙ロケットが遭難したわけだ」
吉久「そういうことです」
龍之介「それは・・あれだね」
吉久「なんですか?」
龍之介「すぐにやらなければならないことなんじゃないの?」
吉久「そ、そうなんですか?」
龍之介「すぐやる課・・宇宙へ・・か」
吉久「いいですよ、別に・・」
龍之介「よかあないだろ、ひと目、見ようよ・・」
吉久「なんで、そんなに・・別に本当は興味あるわけじゃないでしょう・・」
龍之介「いやいやいや」
吉久「絶対、宇宙とか興味ないでしょう」
龍之介「ないよ」
吉久「ないでしょう」
龍之介「ないけどさ、俺は役所のすぐやる課に勤務してるんだよ、すぐやる課ってのはさ、側溝が詰まったとか、スズメ蜂の巣の駆除とかしかできないんじゃないかって思われているのがね、心外なんだよ。どこでも行くよ、行きますよ、行かせていただきますよ」
吉久「宇宙へも?」
龍之介「望むところです・・それで、なに、大人の科学ってのを買ってくると、付録についてくるわけね」
吉久「ロケットキットですけどね」
龍之介「それでも飛ぶんでしょ、宇宙まで飛んでいって、その吉久ロケットと並んで、ランデブーすればいいんでしょ」
吉久「いや、そりゃそうですけどね」
龍之介「できるんでしょ、そういうこと・・」
吉久「できなくはないですけど・・」
龍之介「燃料は?」
吉久「固形燃料です」
龍之介「それは付録についているわけね」
吉久「ついてはいるんですけど、少し多めに積んでおいた方がいい・・」
龍之介「それはどうやって入手するの?」
吉久「ハンズで購入ですね」
龍之介「ハンズで買えるんだ」
吉久「我々レベルの宇宙開発計画に必要な物は、だいたい、ロフトかハンズで用は足りますよ」
龍之介「ああ、そう・・思っているよりは、宇宙は身近なんだね・・たぶん聞いてもわかんないと思うけど、その固形燃料ってのはどんなもんなの?」
吉久「過酸化塩素酸アンモニウムが六十八パーセント、燃料に使うブタジェン系の合成ゴムが十四パーセント、アルミニウムが十八パーセント。アルミニウムを加えるのは燃焼温度を上げて、推進力を高めるためです」
龍之介「やっぱわからん・・」
吉久「ようは、宇宙に出るためのスピードが出せれば、いいんですから」
龍之介「それは・・簡単なの?」
吉久「ま、まあそうですね・・毎秒七・九キロって言われてるんですけどね」
龍之介「そのスピードが出ればいいのね・・」
吉久「人工衛星が、どうして地球の上空を回り続けているのか、って知ってます」
龍之介「全然、まったく、これっぽっちも知らない」
吉久「例えばですね・・」
  と、側に掛けてある『今日のお勧め』の黒板に書いてあるものを吉久、全部消していく。
吉久「ちょっと図に描いて説明しますね」
龍之介「あ、あ、ちょっといいの? 今日のお勧めだよ、それ」
吉久「また後で書きますから・・・例えば、ボールを投げますよね」
  と、大地を書いて飛んでいくボールを描く。
龍之介「うん、ボールね、投げるのね」
吉久「ボールはどうなりますか?」
龍之介「落ちる・・」
吉久「そうです、正解です、ボールは落ちます、当たりです」
龍之介「いや、そんな誉められる答えってことでもないと思うけど」
吉久「じゃあ、こんなふうに」
  と、地球を描く。
吉久「地球の上に立って、ボールを投げると、投げた力の分だけ、遠くに落ちますね」
龍之介「落ちるね」
吉久「この当たりに落ちるとして、もっと、遠くに力を入れて投げると・・」
龍之介「(と、指さして)この辺に落ちるね」
吉久「そうです、では・・もっともっと力を入れて遠くに投げると・・」
龍之介「この辺に落ちる・・結構、力強いね、この辺ってのは地球の裏側なんじゃないの?」
吉久「そうですね・・それでも、もっともっと力を入れて投げると・・こんな風に飛んでいきます・・」
龍之介「あ、そう・・そういうもんかね」
吉久「そうすると、このままずっと落ちないで回り続けることになります・・」
龍之介「ああ・・それが地球の」
吉久「周回軌道になるわけです」
龍之介「でも、そんなふうにぐるぐる回らずに上に(と、描く)こんなふうに飛んでちゃったりしないもんなの?」
吉久「地球には引力があって、ずっとこのボールを地球に向かって引きつける力が働いているんですけど、毎秒十一・二キロになるとその地球の引力を振り切って地球の周りを回ることなく外に飛び出していくことになります」
龍之介「十一・二キロ以下で」
吉久「七・九キロ以上であるならば・・」
龍之介「地球の上空を回り続けるって事だ」
吉久「そうです」
龍之介「さすが先生、わかりやすいねえ・・」
吉久「ずっと、回り続けるわけです・・回り続けているんです・・今も」
龍之介「とにかく、中のチョウチョが生きているうちに・・まず買いに行かないと、その大人の科学ってのを」
吉久「だって軽自動車の新車買うくらいの金かかるんですよ」
龍之介「どうせ、五、六十万ぐらいだろ」
吉久「そうですよ」
龍之介「(笑って)五、六十万だろ、そんなの」
吉久「そうですよ、そうですけど、でも、そんなの出せるんですか」
龍之介「宇宙開発ってのは金がかかるもんなんだよ」
吉久「宇宙開発のなにを知ってるんですか」
龍之介「六十万として、一人一万で六十人か」
吉久「え? 出資を募るんですか?」
龍之介「だから・・さっきから言ってるだろう、俺は市民相談室すぐやる課なんだって、そんな、薄給のいち公務員がね、いくら今、宇宙ですぐやらなければならないことが待っているからって、ぽんと六十万出せると思うの?」
吉久「いや、そりゃそうですよ、だから、僕だって二台目のロケットを打ち上げられないんでですから」
龍之介「でしょ、そうでしょ・・だからさ、友達集めよう、全部で六十人いればいいんだから、二人で三十人づつな」
吉久「一万円出してくれって」
龍之介「宇宙へ行くから」
吉久「ロケット買うんで・・って」
龍之介「無重力状態で、チョウチョがどうやって飛ぶのか、見てみたいと思わないかって」
吉久「見てみたいかな・・そんなもの、見るだけに、お金なんか出すかな」
龍之介「出すよ、出させるよ・・ロケットの打ち上げはどこでやるの? 海辺とか?」
吉久「この前のは河原で打ち上げましたけど・・同じ軌道に乗るためには同じ場所がいいですからね」
龍之介「いいねえ、出資してくれた人は、打ち上げの日、みんな河原に集合ね」
吉久「六十人が・・」
龍之介「いやいや、六十人じゃすまないでしょう、家族連れやら、カップルやら・・車もキャンピングカーとか出したりして」
吉久「そういうことなんですか?」
龍之介「来てくれた人はみんな、打ち上げ前のロケットの胴体に寄せ書きね」
吉久「寄せ書き? なんで?」
龍之介「ん? マジックで」
吉久「いや、なにで書くかって聞いてるんじゃなくて・・」
龍之介「だって、記念だからさ・・自分の名前が地球の周回軌道まで上がるんだよ・・え、それで、ロケットを打ち上げて、それからチョウチョの載っている吉久のロケットとランデブーするまでどういう段取りになるの・打ち上げの流れっていうかさ・・そういうのはどうなの?」
吉久「打ち上げはですね・・まず、カウントゼロで、主エンジンから噴射開始! ぐおおお・・ロケットを発射台に固定している爆発ボルトを爆破! ばんばんばん・・上昇を開始! ぐおおおお・・四十秒で速度が音速に達します! しゅううううぅぅ・・二分後に高度四十七・三キロ。一段目のロケット、分離! ごごごご・・八分三十秒後に無重力状態へ。そこで、二段目のロケットを分離! ごごごご・・高度百二十キロへ」
龍之介「高度百二十キロ・・十分で高度百二十キロ」
吉久「まだ、まだですよ」
龍之介「まだ? なにがまだなの?」
吉久「まだロケットは地球の周回軌道には乗ってません」
龍之介「まだ、まだなの?」
吉久「一分三十秒の慣性飛行ののち、軌道変換エンジンを噴射。それから約三時間かかって、ようやく地球の周回軌道に乗るんです」
龍之介「三時間で周回軌道に乗って・・それで、吉久号とランデブーするのは?」
吉久「そこから速度を微調整して・・一時間もあれば・・」
龍之介「じゃあ、その間に河原ではバーベキューだな」
吉久「バーベキューってなんですか?」
龍之介「だから、打ち上に参加した出資者と、その家族はさ・・バーベキューやって待ってるのよ、ランデブーするまで、ビール飲んだりして・・肉、ネギ、肉、ネギ、ネギ、トウモロコシ、肉、ぶすぶすぶす・・火、点火、ぼー、ぼー、ぼー、熱いよ、熱いよ、熱いよ・・」
吉久「肉の気持ちはいいんですよ」
坪井「それでいよいよランデブーってことになると、みんなおっきなモニターテレビの前に集まるんだよ・・ロケットにはビデオカメラも積んでるんでしょ」
吉久「ありますよ・・」
龍之介「宇宙空間を漂う、吉久号が映るわけだ」
吉久「吉久号のビーコン信号に向かって微妙に速度と方向を調整していって、やがて、モニター画面に小さく映るんです・・銀色の姿が・・」
龍之介「モニターの前で、みんな缶ビール片手にそれを見るわけね」
吉久「地球の周回軌道上、みんなが打ち上げたロケットが、ゆっくりと近づいていく・・」
龍之介「まどろっこしいくらいに、ゆっくりとしたロボットアームが吉久号へと伸びていき・・機体の一部をガッと掴む。モニターテレビの前に集っている人々から、おおっ! という歓声が上がるね」
吉久「音のない世界・・静寂の中、ロケットの外壁が開けられていき、その中に、ミカドアゲハのいる水槽・・」
龍之介「地球の向こうからみるみると太陽が顔を出して、空気に邪魔されることのない、まっすぐな光が、その水槽を貫いていく」
吉久「そこで、たった二匹の雄と雌から生まれた、数多くの青い羽根の蝶達」
龍之介「漆黒の宇宙を背に、ガラスケースの中に、びっしりと蝶が・・いる」
吉久「打ち上げから四ヶ月・・うち捨てられたようなロケットの中・・それでも、ミカドアゲハ達は繁殖を続け、孵化し、さらにまた卵を生んで・・増え続けていた・・」
龍之介「眼下には水の惑星」
吉久「上空には瞬くことのない、満天の星々・・」
龍之介「もう、河原の人たちは拍手、拍手だよ・・」
吉久「そして・・アームで二台のロケットが繋がったまま・・今一度、主エンジンに点火します」
龍之介「え? なんで?」
吉久「ハンズで買い足した固形燃料を使う時です・・並んだ二台のロケットは、さらに加速していきます」
龍之介「加速して・・それで?」
吉久「飛んでいくんです・・」
龍之介「飛んでいく? どこへ?」
吉久「宇宙の果てに・・」
龍之介「え? いいの?」
吉久「ええ・・だって、回収できるものじゃありませんから」
龍之介「それはそうだけど・・」
吉久「地球の引力を振り切るスピードを出すんです」
龍之介「あ、さっきの、秒速十一・二キロだ」
吉久「そうです」
龍之介「それで地球の重力を吹っ切って・・」
吉久「太陽系を漂っていくんです・・蝶達は、このまま、宇宙を漂っていくんだ・・月の重力ひっかかることなく、火星の重力にもっていかれることなく、木星を過ぎ、土星を過ぎ、冥王星を過ぎて・・打ち上げたロケット二台、そこに積まれたミカドアゲハ達が、太陽系を旅して行くんです。やがて、いつか、もしかして、まったく知らない星で生まれた、まったく知らない生物が、俺のミカドアゲハを見つける日がくるかもしれません・・・」
龍之介「どう思うかね・・地球以外の生物が、水槽の中の青い羽のミカドアゲハの群れを見つけて・・」
吉久「さあ・・それはどうですかね」
龍之介「きれいだって思ったりしないかな」
吉久「さあ・・それはどうですかね」
龍之介「ミカドアゲハを見つけた地球以外の生物が、ふと、隣のロケットの外壁を見ると、そこにマジックでこう書かれているんだ・・今、すぐにやらなければならないことは、すぐにやります。市民相談室、すぐやる課、柳沢龍之介」
吉久「ロケットに書くのって、名前だけじゃないんですか?」
龍之介「寄せ書きなんだから、名前となにか一言だろう普通は・・」
吉久「そう、そうかな・・」
龍之介「六十人が寄せ書きしたロケットと、水槽の中のミカドアゲハは、ずっとずっと漂っていくだろうな・・ずっと、ずっと・・」
吉久「そうですね」
龍之介「さあ、付録のロケットを買いにいかないと・・とりあえず、俺が立て替えとくから・・それで、みんなに声を掛けよう。今度の日曜日に、一緒にロケットを打ち上げるよって。ロケットに自分の名前を名前を書いていいからって、そして、そのロケットは太陽系をずっとずっと旅するんだよって・・・やりたいやつはこの指とまれってね・・合い言葉は」
龍之介・吉久「大人の科学!」
  音楽、カットイン。
  そして、暗転していく。