第75話  『静止の白鳥』
  市民会館・大ホール、袖の花道。
  スポットライトを浴びて立つ龍之介と幸子。
龍之介「え・・あ、みなさん、あ、どうも・・あ、ちょっと照明まぶしいですね・・えっと、あの市民会館大ホールのみなさん・・初めまして、私、すぐやる課の柳沢龍之介と申します」
幸子「同じく、すぐやる課の桃井幸子です」
二人「どうぞよろしくお願いします」
龍之介「えっと、あの、突然こんな二人組が出てきてびっくりされたと思いますが。え・・今、この市民会館大ホールですね、え、本日は・・ロシアのエカテリンブルグ国立バレエ、『白鳥の湖』をお楽しみいただいていたわけですけれども・・(と、上の方の客席に向かって)えっと二階席のみなさん、聞こえますか? 聞こえていたら、ちょっと手を振ってみていただけ・・あ、あ、はいはい・・ありがとうございます・・大丈夫ですね・・。ご覧いただいておりました『白鳥の湖』、今、一幕二場でございますが、音のほうがですね・・肝心の『白鳥の湖』の音楽が、途中で止まってしまいました。・・ええ・・音が止まってもですね、ご覧の通り白鳥さん達はですね、こういったポーズで止まっているわけです。音楽が再び、鳴り出すのを待っているわけです・・え、私もですね、ついさっき知らされたんですけど、バレエというのは上演中に音が途切れた場合、バレリーナさん達はみんな、その場で止まって待っていなければならない、らしいんですね。そういう決まりらしいんです。ね、どうですか、みなさん? 綺麗に揃っていますね・・そして、この静寂に包まれたステージ上とはうって変わって・・今、この舞台の裏ではですね、音を復旧させようと、もう、それはそれは死にもの狂いで回復作業を続けております」
幸子「はいはい・・」
龍之介「通常、上演中にこうしたトラブルが起こった場合、いったん幕を下ろして機材を復旧させ、少し前から上演するとか、最初からやり直すとかするものなんですが、このエカテリンブルグ国立バレエ団のスタッフがガンとして、幕は下ろさないと。このまま待つと。言ってきかないわけですね。『私達ハ今マデコレデヤッテキタ、コレカラモコレデヤッテイク』と、強く、きつく言われまして。『オマエ達日本人ニハ、アアヤッテ止マッタママ、音楽ヲ待ッテイル白鳥達ノ気持チガ、ワカラナイノカ? 日本人ニハワカラナイノカ?』 と言われまして。私、言いました。言わせてもらいました。そこまで言われたら、言わずにはおれませんよ。『その気持ち、わかります。わかりますとも。私だけじゃありません。このホールを埋め尽くしている、一千二百人のお客様もみんな同じ気持ちですよ』と。ねえ、みなさん。待ちますよ。音が復旧するまで、待ちますよね。待ってもらいます」
幸子「みなさん、楽に、楽に、リラックスしてお待ちくださーい」
龍之介「そんなわけでですね、私達が、その時間をですね・・まあ、繋ぐというわけではありませんが、繋ぎにこうして・・舞台の袖の方へと、しゃしゃり出てきたという次第でございます」
幸子「只今、一幕二場です。もうたくさんの白鳥がステージ上にいるわけですけど、ご覧の通りですね、オデット・・ねえ。大小の白鳥がそれぞれ四羽づつ。そして、それ以外の白鳥が二十四羽。総勢三十三羽の白鳥が、こうして止まっているわけです」
龍之介「総勢三十三羽・・数があっているかどうか、みなさんも数えてみてください・・私もですね、バレエをそんなにしょっちゅう観る機会があるわけではないんですけど・・も、ですね」
幸子「はい・・」
龍之介「テレビで観ててもですね、こういった世にも珍しい体験はできませんからね。ドキドキしますね。さっきからずっと私の頭の中をぐるぐると回っている一つの疑問があります。これはいったいいつまで続くのか? 白鳥さん達が、いくら子供の頃から鍛えられているとはいえ、何時間もこのままの姿勢でもつ訳はありません。ねえ。根比べですよ。でも、これはいったい、何と何との根比べなんでしょうかね。でも、待ちましょう、待ちましょうね、みなさん。ここでこうして、幕を下ろさず、止まったまま、舞台を続けようとしているバレリーナさん達がいらっしゃるわけですから。ここで、『なんだよ』と席を立ってしまったら、それは日本人として、どうよ、とねえ、なりますからねえ・・」
幸子「待ちますよ」
龍之介「待ちましょうね」
幸子「白鳥が止まっている限り」
龍之介「待ち続けましょう」
  と、音が一瞬だけ、出た。
龍之介「!」
幸子「!」
龍之介「鳴った?」
幸子「ええ!」
龍之介「鳴った? 鳴った? 鳴ったよね、今」
  と、二人、しばし、次の音を待つが・
龍之介「えっと・・なんの音だったんでしょう?・・今の音は、なんだったんでしょうかね」
幸子「なんなんでしょう・・」
龍之介「復旧したということなんでしょうか?」
幸子「そうなんですか? そういうことなんですか?」
龍之介「だったら、マイクか何かでアナウンスが入ると思うんですけど・・入りますかね・・入りませんかね・・入りませんね・・もうちょっと、今、しばらくお待ちください。でも、ね、これも、バレエを観るときのマナーの一つですから、音が止まったら、白鳥も止まって待ち、お客様にも待っていただく・・しょうがないですよね・・こればっかりは・・でも、みなさん、本当に辛抱強く待って下さっています。ね、これも、このバレエ公演を企画しました役所を代表いたしまして、すぐやる課の柳沢龍之介、お礼を述べさせていただきます・・ね。音がようやく鳴りましたね。今、白鳥さんもちょっとびっくりしたんでしょうねえ・・音が鳴ったから、こう慌てて動き出すかと思ったんですけど」
幸子「いや・・動きませんよ」
龍之介「そうなんですかねえ」
幸子「全然違う音でしたから」
龍之介「違う音?」
幸子「今、鳴った音は三幕の音なんです。三幕の、悪魔が勝ちどきをあげる時の音です」
龍之介「え? 三幕?」
幸子「そうです。三幕で悪魔が勝ちどきを上げるシーンですね」
龍之介「今のウルトライントロみたいな音が? 三幕目の音?」
幸子「そうです」
龍之介「なにを? なにを根拠にそんなことをおっしゃって・・」
幸子「わかるんです・・私・・やっていましたから・・バレエを・・」
龍之介「え?」
幸子「私、昔、子供の頃、バレエやってたんです・・『白鳥の湖』、何度も観たことありますから・・」
龍之介「やってるとわかるの?」
幸子「わかります、鳴った音が、どのシーンの、どの音なのかって・・」
龍之介「バレエって二時間とか三時間とかあるわけでしょう? そのどこの音か、さっきみたいにドン! って鳴っただけでわかるものなの?」」
幸子「わかる」
龍之介「わかる?・・」
幸子「バレリーナっていうのはそういうものなんですよ。全部の音を記憶していまして、ドンって鳴ったら、その時の振りが次の瞬間、できちゃうんです」
龍之介「みな・・さん」
幸子「はい」
龍之介「みなさん、一斉に?」
幸子「動きます」
龍之介「それが・・桃井さんの中にも」
幸子「いちおう・・・私の中にも『白鳥の湖』が」
龍之介「ある」
幸子「はい・・・あります」
龍之介「ホントに?」
幸子「ホントです・・」
龍之介「へえ・・」
幸子「バレリーナ達は一幕二場の音が流れない限り動き出さないんです」
龍之介「知らなかったよ、桃井さんがバレエやってたなんて・・」
幸子「言ってませんでしたから」
龍之介「なんで?」
幸子「だって、そんなの言ったら、何やらされるか分かんないじゃないですか、すぐやる課なんですから・・」
龍之介「ゆっくりと『白鳥の湖』を楽しみたかったというわけですね」
幸子「そうです、そういうことです」
龍之介「そうは問屋が卸しません」
幸子「これだよ!」
龍之介「(後ろを気にして)えっと・・さっきの音はなんだったんでしょうかね・・ちょっと様子を見てきますね。今、しばらくお待ちください。じゃ、桃井さん、よろしくお願いします」
幸子「ちょっと、ちょっと待って下さい」
龍之介「なに?」
幸子「行かないでぇ! 私を一人にしないでぇ!」
龍之介「桃井さん、よろしくお願いします」
幸子「もぉ! もぉ! ちょっと、柳沢さん、いっつもそうじゃないですかぁ!」
龍之介「いっつもって・・(客席に向かって)いっつもって、どういうことなんでしょうねえ・・」
幸子「置いてかないでぇ!」
龍之介「こんなところで貫一お宮の寸劇なんかやってる場合じゃないですよ・・じゃ、よろしくお願いします」
幸子「ひでえよ! (と、客席を見て)というわけで一人残されてしまった私、桃井幸子ですが・・それもこれも、すぐやる課というところに務めているから、仕方がないと諦めるべきなんでしょうかね・・えー、すぐやる課ですが、幼き頃、バレエ教室に通い、明日のプリマを夢見ていた子が、今となってはスズメバチの巣を年間百五十近く駆除する日々を送っております。もしも軒にスズメバチの巣を発見しましたら、ご自分で取り除こうとはせずに、ぜひ、すぐやる課へご連絡ください。この舞台に立っていらっしゃるバレリーナさん達もきっと、子供の頃からレッスンを続けていたんでしょう。そして、かたや白鳥、かたやスズメバチというわけです。レッスンはあの頃の私には、とっても厳しくつらいものでした。でも、途中でやめてしまった私とはちがって、彼女達、彼達はずっとあれが続いていて、今、ここに立っているんだろうと思います。だからこそ、ここで終わりにしてしまう訳にはいかないんでしょう・・心中お察し申し上げます、という言葉がロシア語にあるかどうかは分かりませんが、今はそんな言葉しか思いつきません」
  と、戻ってくる龍之介。
龍之介「ども・・お待たせしております」
幸子「どうでしたか?」
龍之介「ええ・・」
幸子「どうでしたか?」
龍之介「ええ・・」
幸子「まだ、まだ待っていなければならないんでしょうか?」
龍之介「もう、ちょっとって感じですねえ・・」
幸子「本当ですか?」
龍之介「本当です・・あと、ひと山ってとこですかね」
幸子「あと、ひと山?」
龍之介「さあ・・みなさん、希望を持っていきましょう。こんな時がずっと続くはずはないと信じて、ですね・・今、我々にできることを・・順番にやっていく」
幸子「今、できることってなんなんですか?」
龍之介「舞台の再開を今か今かと待ち詫びながら、じっと同じポーズで耐え続けている白鳥のみなさん達を、ここでご紹介しましょう」
幸子「あ、そうですね・・それはいいですね」
龍之介「なんたって三十三人もいらっしゃるんですから、ねえ・・これで、なんとかならなかったらって感じですね」
  と、その間に桃井はパンフレットを取りだしてキャスト名を見つけている。
龍之介「いいですか、では、バレリーナさん達の紹介です!」
幸子「ジークフリート王子のマクシム・チェピーク」
龍之介「マクシム・チェピーク・・みなさん、大きな拍手で・・再び音が鳴るのを待っているのは、舞台の上の白鳥達だけではありません」
幸子「悪魔ロットバルトを踊ります、イーゴリ・ソロヴィヨフ」
龍之介「悪魔ロットバルト、イーゴリ・ソロヴィヨフ! 客席のみなさんも、再びあのチャイコフスキーの曲がこのホールに鳴り響くのを、今か今かと待っているわけです。その気持ちを白鳥さん達に送りましょう」
幸子「イリーナ・ニーロワ」
龍之介「ロシアからはるばるやって来た彼女達には、言葉は通じません」
幸子「オクサーナ・シェスタコワ」
龍之介「でも、拍手は伝わるはずです」?
幸子「オリガ・ステパノワ」
龍之介「一度開いた幕は終わるまでは、なんとしても下ろすことはできません。」
幸子「エレーナ・シェシナ」
龍之介「演じる方も、それを観る方も、そして、裏でこの舞台を支えているスタッフ達も、誰もそれを望んではいません」
幸子「オリガ・ポリョフコ」
龍之介「私達も、黙って待っていることはありません。どうか、舞台を止めないために、止まっている白鳥達に拍手を・・」
幸子「イリーナ・コシェレワ」
龍之介「止まっている白鳥達に拍手を・・」
幸子「イネッサ・ソブカ」
龍之介「惜しみない拍手をどうか・・」
幸子「ナターリャ・マツァク」
龍之介「ナターリャ・マツァク!」
  と、静かに『白鳥の湖』の音楽が流れ始める。
龍之介「あ・・」
幸子「音、出ましたねえ」
龍之介「音・・復旧しましたか?」
幸子「今度は途切れませんねえ」
龍之介「大丈夫ですか? 大丈夫ですか? 今度は喜んでも大丈夫ですか? 大丈夫ですね・・音、なんか小さくありませんか?」
幸子「しかも、これは一幕二場でも、ド頭の曲ですよ・・」
  と、女性のアナウンスが入った。
アナ「大変長らくお待たせいたしました・・これより『白鳥の湖』第一幕第二場を再開いたします。みなさま席にお戻りになってお待ちください」
龍之介「音楽は復旧するというアナウンスが今、流れましたが、バレリーナさん達の紹介が途中なので、最後までやります・・ねえ・・いいですね」
幸子「オクサーナ・グリャエワ」 
  と、龍之介もまたパンフレットを手にして読みあげ始める。
龍之介「オレスヤ・マカレンコ」
  と、曲が大きくなってくる。
龍之介「音が大きくなってきましたねえ」
幸子「早く引っ込めってことじゃないですか?」
龍之介「(笑って)そんな、大変な時に出ていってなんとかしろって言っておいて、片付いたからとっとと戻れって・・すぐやる課はカプセル怪獣じゃないんですから・・さあ、続けましょう。バレリーナさん達の紹介の続きです」
幸子「アナスターシャ・パヴルス」
龍之介「ナターリャ・ドムラチェワ」
  曲、盛り上がってくる。
幸子「ヤナ・サレンコ」?
龍之介「カテリーナ・アライェーワ」
幸子「オリガ・プリギナ」
龍之介「オクサーナ・クチュルク」
幸子「タチアナ・クレンコワ」
龍之介「アリョーナ・コロチコワ」
幸子「マリーナ・カンブロワ」
龍之介「エルビラ・ハビブリナ」
幸子「ラリッサ・マカロフ」
龍之介「マリア・チェルネフスカヤ」
幸子「ヴィクトリア・シシコワ」
龍之介「アナスターシャ・ロマチェンコワ」
幸子「そして」
龍之介「そして!」
幸子「オデットを踊ります」
龍之介「オデットを踊ります」
幸子「 アンナ・ドロシュ」
龍之介「アンナ・ドロシュ!」
  拍手!
  曲、盛り上がって・・
龍之介「大変長らくお待たせいたしました」
幸子「それではご覧いただきましょう、バレエ『白鳥の湖』一幕二場の続きです」
龍之介「繋ぎのお話は、すぐにやらなければならないことは、すぐにやります」
幸子「市民相談室、すぐやる課でした」
龍之介・幸子「ありがとうございましたぁ!」
  スポット、消えて。
  曲、さらに盛り上がる。
  暗転。